(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
(平安人が残した)辞世の和歌
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「辞世の和歌」について調べだしたら、意外と難しいことがわかった。
そこで「平安時代の有名人」が「私の規定する」辞世の和歌としてどんな和歌を残したか、わかる範囲で取り上げてみた(すべての辞世の和歌でないことは言うまでもない)。
平安前期 平安中期 平安後期 (番外)それ以降
- 辞世の和歌とは
- 【広辞苑第六版】によれば「辞世」とは
- (1)この世に別れを告げること。死ぬこと。 また
- (2)死に際に残す偈頌(げじゅ)・詩歌など。 「辞世の句」とある。
- ところで「辞世」という言葉を歴史的に調べてみると
- 「辞世」という言葉が初めて書物に現れるのは「太平記」(南北朝)(であるらしい)。
- その後、死を常に覚悟していた武士層が「辞世の句」を詠み始め、江戸時代になると文化人の間にも広まった。
- したがって平安人は「辞世の和歌」を詠むという意識を持っていなかった。
- ということで、「辞世の和歌を知らなかった」平安人のために、平安時代の辞世の和歌を規定したい。
- 「死に向き合って詠った和歌」または「人生の最期(最後)に詠った和歌」と規定したい。
- こう規定すると「詠った時期の分類」=【時期分類】として
- (1)「死の直前」に詠った和歌
- (2)「死期を予感」したときに詠った和歌
- (3)記録上「人生最後(最期に近い)」に詠った和歌 に分類できる。
- 記録の少ない時代ですから、この分類の「厳密判断」は難しい。判定者(=私)の主観が多分に入り込みそう(ご容赦願います)。
- もう一つ「詠った内容の分類」=【内容分類】として
- (1)「死後の願望」を詠った和歌
- (2)「死に様」を詠った和歌
- (3)「死際の感慨」を詠った和歌
- (4)「特定の人」に伝えたい事柄を詠った和歌
- (5)「人生を総括」する言葉を詠った和歌 に分類できる。
- これも内容に関わることなので、この分類の「厳密判断」も難しい。判定者(=私)の主観が大いに入り込みます(ご容赦願います)。
- その他
- 「没年月日」は旧暦で、「没年」順に並べました(生きた時代とは若干ずれます)。
- 小野小町(貞観6年(864)頃没)
- あはれなり わが身の果てや 浅緑 つひには野辺の 霞と思へば(新古今和歌集)
- この和歌を小野小町の辞世の和歌とする説が多いが、改作の(完全な小町の作でない)可能性もあり、詠んだ時期も不確定。【時期分類=(不明)】。辞世にはし難い。
- (和歌の内容だけで考えるなら)儚くて 雲となりぬる ものならば 霞まむ空を あはれとは見よ(続後撰集)の方が「辞世らしい」。【内容分類=死後願望】。結論は出せない。
- 在原業平(元慶4年(880)5月28日没)
- つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日(きのふけふ)とは 思はざりしを(古今和歌集)
- 詞書に「病気になって心弱くなったときに詠んだ歌」とあるから、【時期分類=死期予感】。
- 内容分類は難しいが『いずれ死ぬだろうとは思っていたが、そろそろ死が迫っているなあ』と「現世でのいろいろな事件の無念さ」を嘆いているので、【内容分類=死際感慨】か。
- 菅原道真(延喜3年(903)2月25日没)
- 流れ木と 立つ白波と 焼く塩と いづれか辛き わたつみの底(新古今和歌集)
- 道真の辞世の和歌と言えば「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」を挙げる人が多いが、これは流刑地大宰府に旅立つときの和歌。「辞世」とは言えない。
- 道真は大宰府に流されて2年後に病死した。この間に和歌を詠まないはずはない。新古今和歌集には「筑紫での和歌12首」が入集している。
- その中のどれが「辞世」かわからないが、『配流地で多くの辛苦を味わっている、そろそろ死期は近い』と嘆く(12首中の)最後の和歌を採った。
- (上述から)【時期分類=人生最後(に近い)】、【内容分類=死際感慨】か。
- 大江千里(延喜23年(923)頃没)
- もみじ葉を 風にまかせて 見るよりも 儚きものは 命なりけり(古今和歌集)
- 詞書に「病で寝ている秋、心細くなったので、友達に送った」とあるから、【時期分類=死期予感】、【内容分類=特定の人】。
- 「古今和歌集」に採られているが、誰に送ったのかはわからない。
- 『人の命は落葉より儚いものだなあ』と詠って、いかにも辞世らしい。
- 紀貫之(天慶8年(945)5月18日没)
- 手に結ぶ 水にやどれる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ(拾遺和歌集)
- 貫之が病を得て死を覚悟したした時、『定かでない儚い一生だっだ』と源公忠に贈った歌。公忠が返歌する間もなく、貫之は亡くなったというから、【時期分類=死の直前】。
- 貫之の死に驚き悲しんだ源公忠はすぐに「返歌」を作り、貫之と返歌を一緒に埋葬した(焼いた)とも。山の中にある紀貫之の墓との関係も不明。
- 源公忠は光孝天皇の孫、大蔵卿源国紀の子、紀貫之の和歌友達。
- (上述から)【内容分類=特定の人、人生総括】。
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- 空也(天禄3年(972)9月11日没)
- 極楽は 遥けきほどと 聞きしかと つとめて至る 所なりけり(千載集)
- 空也はあまり和歌を残していない。この和歌は『極楽はすぐ傍、至る所にあるよ』と諭している。
- 「最後の言葉」が『無覚の聖衆来迎 空に満つ』で、千載集に残っている上の和歌は「同じような内容」なので、辞世はこの和歌でもよいかと考えた。
- (上述から)【時期分類=人生最後(に近い)】、【内容分類=(念仏説法)】。
- 藤原義孝(天延2年(974)9月16日没)
- しかばりき 契りしものを 渡り川 かへる程には 忘るべくやは(後拾遺集)
- 「今昔物語」に出てくる話。『死んでもすぐには納棺しないように、との約束は忘れてしまったのですね』と死後母の夢の中で詠ったとある。
- 約束を違えて納棺した姉を恨んで、母の夢に出て姉を訴えたという話。
- しかし「後拾遺集」に採られたのだから、本人が詠んだのだろう。とすれば【時期分類=死の直前】。「今昔物語」は「話を面白く改作した」のだろう。
- (上述から)【内容分類=死後願望】。
- 藤原定子(長保2年(1000)12月16日没)
- 夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき(後拾遺集)
- この時代最もはっきりとした辞世の和歌三首を残した人。「帳の帷(かたびら)の紐」に「三首の和歌を書いた紙」を括りつけてから「その帳」の上で死んだ。
- 一首目は「夫・一条帝」へ『約束どおり死後も私のために泣いてくれますか』と宛てたもの。【内容分類=特定の人】。
- 知る人も なき別れ路に 今はとて 心ぼそくも 急ぎたつかな(後拾遺集)
- 二首目は『知る人もいない死出の旅路は心細いですが、急ぎ今旅立ちます』。【内容分類=死に様】。
- 煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それと眺めよ(後拾遺集-異本)
- 三首目は(出典が怪しいですが)『火葬にしないで、土葬にしていつも墓の草を眺めていてくださいね』。【内容分類=死後願望】。
- 一条帝(寛弘8年(1011)7月25日没)
- 露の身の 風の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき(権記)
- 一条帝は亡くなるときに「字に書かず」声で詠ったらしい。それを藤原行成が記憶して「権記」に記録した。
- 『成仏しきれていない君=定子を残して成仏することは悲しい』。
- 露の身の 風の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ(御堂関白記)
- 同様に、彰子の父藤原道長も記憶して「御堂関白記」に記録した。結果微妙に異なる2つの辞世の和歌が残った。
- 今となっては「どちらが正しいか」確かめる術は無い。【時期分類=死の直前】、【内容分類=死際感慨】。
- 清少納言(万寿2年(1025)没)
- おしなべて 菊としもこそ 見えざらめ こはいとはしき 方に咲けかし(公任集)
- 藤原定子に仕えた清少納言は、定子亡き晩年は月輪の山荘に隠棲した。
- それを知った藤原公任は清少納言に「身目の悪い菊に添えて」歌を送って返事を催促した。仕方なく『あなたの言葉を“聞く”ことはできませんわ』と返した。
- 隠棲後の和歌で残っているのはこのやり取りくらい。内容を見ても辞世ではない。
- この和歌は(几帳面な公任の)「公任集」に残った(奇跡的)。記録に残る【時期分類=人生最後(に近い)】の和歌ではないだろうか。【内容分類=特定の人】。
- 藤原道長(万寿4年(1027)12月4日没)
- 万代の 齢をこめて 菖蒲草 長きためしと 今日ぞ聞きつる(関白御堂集)
- 道長の辞世の和歌と言えば「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」を挙げる人が多いが、これは絶頂期寛仁2年(1018)の和歌。とても「辞世」ではない。
- 最後は法成寺阿弥陀堂で亡くなったが、あまり和歌を残していないので、辞世の和歌はわかりにくい。
- 「関白御堂集」の最後に『長寿をもたらす菖蒲草にあやかりたい』と詠っている和歌が残っているので(私の独断で)この和歌を採った。
- (上述から)【時期分類=人生最後(に近い)】、【内容分類=長寿願望】か。
- 紫式部(長元4年(1031)6月以前没)
- 奥山の 松葉に凍ほる 雪よりも 我が身世に経る 程ぞ悲しき(続後撰集)
- 紫式部の辞世の和歌に「誰か世に 長らへて見む 書きとめし 跡は消えせぬ 形見なれども」を挙げる人が多いが、これは長和3年(1014)頃の和歌。
- 紫式部の没年にはいろいろな説があって、「長和3年(1014)」説を採れば、この和歌が「辞世」になってもよい。
- 私は角田文衛博士の「長元4年(1031)」説を採るので、この和歌は「辞世」にはならない。
- さらに「角田先生」の説によれば「上の和歌を長元3年(1030)に詠んだ」とある。この和歌を「辞世」としたい。【時期分類=人生最後(に近い)】。
- 上東門院のために清水寺に参籠した時、伊勢大輔と遭遇して、和歌のやり取りをした。【内容分類=特定の人】。
- 『奥山の松の枝の雪もやがて消えるように、私がこの世に生きている時間も儚いでしょうね』。多少「死期を予感」し始めたか。
- 和泉式部(長元7年(1034)頃没)
- あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな(後拾遺集)
- 和泉式部の辞世の和歌と言えば「この和歌」を挙げる人が多いが、これは長元元年(1028)以前に詠んだ和歌。「辞世」とは言えない。
- 和泉式部は後年、摂津守藤原保昌に同行して摂津へ行き、都に戻ることなく没した。摂津での和歌は残っていない。和泉式部は辞世の和歌を詠んでいないと考えざるをえない。
- 周防内侍(天永元年(1110)頃没)
- かくしつつ 夕べの雲と なりもせば あはれかけても 誰か忍ばむ(新古今和歌集)
- 40年以上務めた「内侍」を71歳で致仕してすぐ、病気になり広隆寺に籠っていたとき(天仁元年(1108))に詠んだ。
- 「仕事一途」に生涯未婚のまま過ごしてきたので「こんなふうに係累もなく孤独な境遇で寺に籠ったまま、死んでしまうのか。夕べの雲のように儚くく消えてしまったら、いったい誰が偲んでくれるだろうか」の心で詠んだか。
- (上述から)【時期分類=人生最後(に近い)】、【内容分類=死際感慨】。
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- 鳥羽院(保元元年(1156)7月2日没)
- 常よりも 睦ましきかな 時鳥 死出の山路の 友と思へば(千載集)
- 詞書に「煩はせ給ひける時に、鳥羽殿にて・・・」とあるから鳥羽離宮で詠んだ。
- 「煩はせ給ひける時」を「病気になって」と解釈すれば、晩年に詠んだことになる。鳥羽院はあまり和歌を残していないので、これが(記録に残る)最後の和歌か。この頃から辞世を詠む習慣が定着し始めた。【時期分類=人生最後(に近い)】。
- 『いつものほととぎすがより睦まじく鳴いている。死出の山道も連れ添ってくれるよね』。【内容分類=死後願望】。
- 崇徳院(長寛2年(1164)8月26日没)
- 夢の世に なれこし契り 朽ちずして 醒めむ朝に 逢ふこともがな(長秋詠藻(治承2年(1178)頃編んだ俊成の家集))
- 流刑地の讃岐から藤原俊成に宛てた「遺言としての長歌」の反歌。
- 俊成に届けられたとき「崇徳院は既に崩御」していたので、正しく【時期分類=人生最後】。
- 長歌は「玉葉集」に採られ、反歌は個人家集に残った。
- 『この世の縁が朽ちることなく、夢から覚めて成仏した時も、あなたに逢えると嬉しい』。【内容分類=特定の人、死後願望】。
- 平時子(元暦2年(1185)3月24日没)
- 今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも 都ありとは(長門本平家物語)
- 壇之浦の戦いで敗戦が濃くなったとき、時子は『波に下にも都はありますよ』と安徳天皇に聞かせ(長門本平家物語)、天叢雲剣(三種の神器)を抱いて入水した(吾妻鏡)、と伝えられる。
- 平時子は平清盛の後妻で、宗盛・知盛・建礼門院・重衡を生み、「二位尼」と呼ばれる。
- (上述から)【時期分類=死の直前】、【内容分類=死後願望】と言えそう。
- しかし戦場で詠った和歌がどうして残ったのか、(史実として)平時子が本当に詠んだ和歌かは定かではない。
- 西行(文治6年(1190)2月16日没)
- 願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃(山家集、続古今和歌集)
- 西行の辞世の和歌と言えば「この和歌」が有名だが、これは承安5年(1175)以前に詠んだ和歌。「辞世」ではない、「死に様の願望」を詠った和歌。
- 西行の「最後に詠った和歌探し」は今も行われていて、今のところの候補は次の2つであるが、結論は出ていない。
- にほ照るや 凪ぎたる朝に 見わたせば 漕ぎゆく跡の 浪だにもなし(拾玉集(慈円の家集))
- 文治5年(1189)慈円を訪問した折、比叡山無動寺から琵琶湖を見て『空観を開陳』して詠った和歌。
- 訪ね来つる 宿は木の葉に 埋もれて 煙を立つる 弘川の里(慈円の家集(らしい))
- 文治5年(1189)10月円仁上人が河内の弘川寺(死去の地)に訪れてきたことを、慈円に和歌にして送ったもの。
- 後白河院(建久3年(1192)3月13日没)
- 露の命 消えなましかば かくばかり 降る白雪を 眺めましやは(新古今和歌集)
- 詞書に「御悩み重くならせ給ひて、雪の朝に」とある。
- 重篤になったのは建久2年(1191)12月25日だから、雪も降っていただろう。今様に熱心であまり和歌を詠まなかった後白河院なら、これが最後の和歌(であったとしても不思議ではない)。【時期分類=人生最後】か。
- とすれば、詠ったのは小六条殿。
- 『私の命が消えてしまったなら、もう今朝のような美しく降る雪を眺めることはできないね』。【内容分類=死際感慨】。
- 式子内親王(正治3年(1201)1月25日没)
- ながめつる けふは昔に なりぬとも 軒端の梅は われを忘るな(新古今和歌集)
- 式子内親王も辞世の和歌を詠んでいない。
- 式子内親王の「最後に詠った和歌」は、正治2年(1200)に開かれた「正治初度百首」(後鳥羽院主催)に詠進した百首(だろう)。
- 同年7月に詠進下命があり、9月頃までに詠進したはずなので、(百首すべてがその時に詠んだかはわからないが)この頃詠んだと思われる。
- その百首の中から「新古今和歌集」にも採られ、藤原定家が「最も良い」とした和歌が上の和歌。【時期分類=人生最後(に近い)】。
- 『こうして眺めている今日という日が昔になっても、軒端の梅よ、私を忘れないでおくれ』、【内容分類=(辞世らしくない)】。
- 後鳥羽院(延応元年(1239)2月22日没)
- 今はとて 背き果てぬる 世の中に 何と語らふ 山ほととぎす(後鳥羽院遠島百首)
- 後鳥羽院の辞世の和歌と言えば「我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き浪風 こころして吹け」を挙げる人が多いが、これは承久3年(1221)流刑地隠岐に到着したときの和歌。
- 隠岐では約「18年」生きたので、これは「辞世」とは言えない。
- 後鳥羽院は隠岐でも多くの和歌を詠み、死後「遠島百首」が編まれた(これに入らない和歌も多くある)。
- その中で「どの和歌が最後か」はわかっていない。上の和歌は「配流後しばらく経ってから詠んだ」和歌なので、これを「辞世」とした。
- 『今となっては京に帰ることはない、今鳴いている山時鳥を相手に何を話せというのか』。【時期分類=人生最後(に近い)】、【内容分類=(流刑の感慨)】。
- 順徳院(仁治3年(1242)9月12日没)
- 思いきや 雲の上をば 余所に見て 真野の入り江に 朽ち果てむとは(真野山皇陵記、後日書かれたものかもしれない)
- 承久3年(1221)流刑地佐渡に送られて約「20年」。失意の下、上の「辞世の和歌」を詠んで、食を断って佐渡の真野の地で自ら崩御した。【時期分類=死の直前】。
- 今も「真野陵」(佐渡院と諡号)は残るが、後に後鳥羽院とともに大原陵(順徳院と諡号)へ遷された。
- 『ここからは御所(雲の上)は見られない、真野の入江で 朽ち果ててしまうのは残念だ』。【内容分類=死際感慨】。
- この和歌は歌集には採られていない。誰か(佐渡に同行した「康光法師か」)が記録したものが、伝えられた(らしい)。
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(番外)平安時代以降の有名人で、私のHPに詳述した人がどんな辞世の句を残したか、わかる範囲で取り上げてみた。
- 鴨長明(建保4年(1216)閏6月9日没)
- 一期の月影かたぶきて、余算の山の端に近し。たちまちに、三途の闇にむかはんとす。(方丈記-跋(末尾)、和歌ではない)
- 建暦2年(1212)書き終えた「方丈記」の末尾は辞世風。【時期分類=死期予感】。
- これを見て「源季広」が「月影は 入る山の端も 辛かりき 絶えぬ光を 見るよしもがな」と詠んだ。長明の辞世だと書いている人もおられるが、これは長明の和歌ではない。
- 『私の人生は月が山の端近くなったように、終焉が迫っている。地獄・餓鬼・畜生のいずれかに向かうのだろう』。【内容分類=死際感慨】。
- 兼好法師(観応3年(1352)頃没)
- 帰り来ぬ 別れをさても 嘆くかな 西にとかつは 祈るものから(自撰-兼好法師歌集-巻軸歌)
- 「風雅和歌集」(兼好法師も1首入集している)のために康永4年(1345)頃提出した「自撰-兼好法師歌集」の最後にあって、辞世風。【時期分類=死期予感】。
- 『西方浄土へ往生できるように祈っていても、死別はやっぱり嘆くでしょう』。【内容分類=死際感慨】。
- 豊臣秀吉(慶長3年(1598)8月18日没)
- 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢(木下子爵家文書)
- 慶長3年(1598)8月5日「伏見城」で徳川家康など五大老に遺言するときこの和歌を示した。【時期分類=死の直前】。
- 『私の一生は露のように儚かった。大阪城に至るまでの「道のり」は夢の中の夢のようだった』。【内容分類=人生総括】。
- 秀吉にしては出来過ぎの和歌。(戦国時代には辞世の和歌は完全に定着、儀式化してきた)誰かに詠んでもらったのではないか(秀吉には失礼ですが)。
- 松尾芭蕉(元禄7年(1694)10月12日没)
- 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る(笈日記、俳句)
- 10月8日、看病中の「呑舟」に墨を磨らせ「上の句(病中吟)」を認めさせた。【時期分類=人生最後(の句であることは間違いない)】。
- しかしその後「支考」と共に推敲したことがわかっているので、最期まで「より良い俳句」を求めていたようです。
- 『病気が悪くなって旅先(の大阪)で寝ています、でも見る夢は「句を求めて元気に各地を歩いている姿」です』。
- 【内容分類=(旅に費やした人生の総括)か、(句を詠むためにまた旅に出たいという願望)か】。
- 芭蕉の研究者は「辞世ではない」と結論付けています。
- 近松門左衛門(享保9年(1724)11月22日没)
- それぞ辞世 去る程さても その後に 残る桜が 花し匂はば(自画像の讃)
- 死の2週間前に出来上がった「自画像」(掛け軸)に「もし辞世はと問う人あらば」に続いて「上の和歌」を讃した。【時期分類=死の直前】。
- 『後に残る作品が大入りになるのなら(残る桜が花し匂はば)、その作品が辞世です』。【内容分類=死後願望(辞世を意識して)】。
- 遺作となった「関八州繋馬」を書き上げた後(らしい)。
- 与謝蕪村(天明3年(1783)12月25日没)
- しら梅に 明る夜ばかりと なりにけり((蕪村の追悼句集、几董編)から檜葉(からひば)、俳句)
- 12月24日夜、蕪村が「病中の吟あり」と言うので、待機していると3句吟じた。それを「月渓」が聞き取った。その中の3つ目が上の句。【時期分類=人生最後(の句であることは間違いない)】。
- さらに「初春の題を置くべし」と呟いて、臨終・往生した。最期まで「俳句を気にかけていた」。
- 『(冬も終わり、そろそろ)薄闇に白梅が見える夜明けの季節になった』。【内容分類=(純粋に初春を詠む)】。
- それとも『外では白梅が咲いている、私に残された時間は「白梅が見える夜明けまで」だ』か。【内容分類=死際感慨】。
- (芭蕉も含めて)俳諧者の「最期の句」は難しいが、これも辞世の句ではなさそう(辞世の句に「初春」の題は付けないだろう)。
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