(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

鴨長明           (INDEX:索引へ)


枕草子徒然草をまとめたので、三大随筆の残り「方丈記」についてもまとめた。

鴨長明の人生はわからないことが多いが、結局は「安らぎの場所」を探し続けて彷徨った人生だったような気がする。


    鴨氏の家系図    鴨長明の後半生(一人生活)    鴨長明の人生(補足)    まだわからないこと
暦年と鴨長明の年齢主な事績関連する写真方丈記
久寿2年(1155)〜

(1歳〜)
久寿2年(1155)下鴨神社(写真)の禰宜・鴨長継の次男として生まれる
    場所は南大路亭でしょう
応保元年(1161)従五位下
承安3年(1173)父・長継没(禰宜は「本家筋」の鴨祐季が継ぐ)
    父方の祖母の家に引っ越した
clickすれば大きな画像(1)
行く川の流れは絶えることはない、しかし元の水ではない。淀みに浮かぶ水の泡は、消えては結び、久しく止まることはない(同じ状態が続くことはない、中略)
世に住む人も同じである。(中略)誰かが朝に死に、誰かが夕方に生まれる。ちょうど水の泡に似ている。
(序は「水の泡」で括っている)
安元元年(1175)〜

(21歳〜)
安元元年(1175)高松院北面菊合に詠進(公式記録に残る初事績)
    写真は菊合が行われた高松殿の跡にある高松神明社
  人知れぬ 涙の河の 瀬を早み 崩れにけりな 人目つつみは
治承元年(1177)兄・長守(五位)没
clickすれば大きな画像(2)安元の大火・治承の辻風
私が物心ついた時から四十年余りが経った今これを書いているのだが、この間に世の不思議を見ること、だんだん増えてきたような気がする。安元3年(1177)だったと思うが
(以下意訳)安元の大火があって、朱雀門・大極殿などが焼失した。治承四年(1180)にはつむじ風が吹いて、家々が吹き飛ばされた。
治承4年(1180)〜

(26歳〜)
治承4年(1180)福原を往還する(好奇心か、現場主義か)
養和元年(1181)「鴨長明集」成立(105首、賀茂別雷社奉納のためか)
元暦元年(1184)七月賀茂別雷社歌合で「(下鴨神社)瀬見の小川」(写真)の歌が「負け」となった(判者=源師光)。が後に「新古今集」に採られた(源師光を見返したか)
  石川や せみの小川の 清ければ 月も流れを 尋ねてぞすむ
clickすれば大きな画像(2)福原遷都・養和の飢饉・元暦の大地震
(意訳)治承四年(1180)急遽福原遷都があり人々は右往左往。養和元年(1181)の飢饉は筆舌に尽くし難い。元暦2年(1185)の大地震はこの世の常とは思えない。
(3)安らぎを得るには
そもそも世の中は暮らし難く、我が身と住まいが儚く頼りないのは、(これまで縷々述べてきた)災害と同じだ(中々うまくいかない)(中略)
いったい、どのような場所に住んで、どのような営みをすれば、しばらくこの身を置ける束の間の安らぎを得られるのだろうか。
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鴨氏の家系図
clickすれば大きな画像(凡例)
太実線=禰宜(@A・・・は就任順序)
太破線=河合社禰宜(ただし祐頼は後年、禰宜就任)

(・・没)=没年     (ただしわかる人のみ)
(・・任)=就任年
(・・記)=禰宜として活動した記録のある年
(・・廃)=罷免など廃任された年
(補足)
(1)@惟季の後継は「惟長」と決まっていたのか(名前からの推察、「惟長」系が本家
(2)B惟長が亡くなると(惟文が幼かったためか)「南大路家を興していたC季継」を猶子にして禰宜に
(3)D惟文が亡くなった時もE長継を猶子禰宜に
(4)1173E長継亡き後の禰宜は「本家筋のF祐季」へ
(表面上「本家と南大路家」が交互に禰宜就任のように見えるが)
(5)(後継に問題がない限り)F祐季の次は1184G祐兼へ

    長明が不満を持つ筋の話ではない
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元暦元年(1184)〜

(30歳〜)
元暦元年(1184)十月、祐季の子・祐兼が禰宜に
元暦元年(1184)十月以降(理由はいろいろあって、父方の祖母の家を出て)一人で鴨川の縁に(写真)引っ越した。
文治2年(1186)正三位藤原俊経らと「伊勢・熊野(和歌の聖地)を巡る
文治3年(1187)千載集(俊成撰)に1首入選
  思ひあまり うちぬる宵の 幻も 浪路を分けて ゆき通ひけり
建久2年(1191)源頼朝上洛で開かれた若宮社歌合に出詠
    (この後しばらく動静がはっきりしない琵琶の練習に夢中だったか)
clickすれば大きな画像(4)我が身の遍歴
私は父方の祖母の家を継いで長くここに住んでいたが、血縁が切れて居続けることができなくなり、三十あまりになって(元暦元年(1184))改めて一人で庵を結んだ鴨川の縁(中略)
これまでも再三のつまずきがあり、自分の不運(禰宜になりそこなった)を悟った。五十の春を迎えて(元久元年(1204))出家して遁世した。(中略)大原で無為の生活を送る内、実に五年の歳月が経った(1204-1208の5年)
正治2年(1200)〜

(46歳〜)
正治2年(1200)石清水若宮歌合(後鳥羽院の東宮奉祝)に出詠(歌会復帰
    (後鳥羽院の意向で、新しい歌人が招聘されたかららしい)
建仁元年(1201)後鳥羽院の抜擢で「和歌所の寄人」に
  (写真は和歌所の置かれた二条殿跡、俊成・定家らと精勤した)
clickすれば大きな画像(5)方丈の宿り
さて六十という人生の終わり近くになって承元2年(1208)54歳か)、更に余生を過ごす家を作ることになった。(中略)広さは方丈、高さは七尺。(中略)
阿弥陀の絵像を安置し、普賢も懸け、前に法華経を置く。(中略)籠には和歌・管絃・往生要集などの抜書きを入れて、脇に琴・琵琶各一張を立て置く。身の回りはこんなものか。
建仁3年(1203)〜

(49歳〜)
建仁3年(1203)「新古今集」の撰集作業を終える
元久元年(1204)「河合社禰宜事件」で大原(写真)へ出奔、そして出家
   精勤ぶりを見た後鳥羽院が長明を河合社禰宜に推挙したのだが
   下鴨神社禰宜・祐兼が猛反対し推挙を拒否した(祐輔が河合禰宜に)
元久2年(1205)「新古今集」成る。長明は10首入集
clickすれば大きな画像(5-続き)日野山の生活
庵の南に樋を懸けて、岩に水を貯めている。林も近いので薪にする小枝を拾うにも困らない。名を外山と云う。(中略)
春は藤波を見る。紫雲のごとく色美しく咲く。夏は郭公を聞く。それを聞くたびに、あの世への案内を契る。(中略)
天気が良ければ、峰に登って、思い出多き木幡山・伏見の里・鳥羽・羽束師を見る。(以下略)
承元2年(1208)〜

(54歳〜)
承元2年(1208)大原から日野へ移る
   ここに建てた庵を「方丈庵」という(9.2u=3坪=6畳)
   持ち運び可能な庵(写真は河合社に残る復元庵)
  (簡単な覆い屋根、支え木は掛け金で留める。長明自筆の設計図も残っている)
   長明が選んだ最後の栖(安らぎは得られたか)
clickすれば大きな画像(6)閑居の思い
そもそもここ(日野山)に住み始めた時は、ほんの暫くの間と思っていたが、いつの間にか五年を経た(1208-1212の5年)。仮の庵も次第に故郷になった。(中略)都では火事で焼失した家はどれほどあろうか。仮の庵は長閑で火事の恐れはない。狭いといえども、夜臥せる床はあり、昼坐る座もある。(以下略)
建暦元年(1211)〜

(57歳〜)
建暦元年(1211)(長明を推挙した)飛鳥井雅経と鎌倉へ、源実朝に歌を指導
建暦2年(1212)「方丈庵(外山の庵と記している)」で方丈記成立
 日野誕生院から東へ約1kmに「方丈石」(写真(撮影:宮下))が建つ
建保4年(1216)「方丈庵」で(一人静かに)閏六月九日没
clickすれば大きな画像(7)
私の人生は月が山の端近くなったように、終焉が迫っている。直ぐにも三途の闇に向かう身なのに、何について弁明しようというのか。仏の教え給うことは、何事についても執着心を持つなということだ。(中略)
今は只、阿弥陀仏を二度三度称えるのみ。時は建暦二年(1212)三月の末。出家「蓮胤」が外山の庵でこれ(方丈記)を書き終えた。
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鴨長明の親戚関係下鴨神社の古地図(from下鴨神社)鴨長明が「方丈庵」から「日帰り遠出」したところ
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祖父・季継にはもう一人妻がいた、という説もある「南大路亭」は最南部、「高野川」に近い「堤」の内側にある私の日帰りハイキングコースに似ている
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