(京都の寺社−今昔−写真比較)
寂光院
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正式名称・宗派
:清香山玉泉寺寂光院/天台宗
開基
:推古天皇2年(594)聖徳太子が父用明天皇の菩提のため開創したとされる(寺伝)ほど古くからある寺院。世に知られるようになったのは、文治元年(1185)
建礼門院
がこの地に隠棲してからである(「平家物語」に詳しい)。
住所(昭和40年代の表記)
:左京区大原草生町
交通の便:京都バス16番など「大原」下車(徒歩15分)
特記
:本堂は
平成12年(2000)焼失
後の再建だが
本堂
前西側の庭園は平家物語を彷彿させる。
関連する東山三十六峰
:なし
公式サイト
:
寂光院
建物
昭和40年代
現在
(撮影年月日)
1966−10−11
2007−9−14
庭から見る「
本堂
」
比較(コメント)
焼失前の本堂
が見られます
平成再建の本堂です
(撮影年月日)
1966−10−11
2007−9−14
石段下から見上げる「門」
比較(コメント)
拝観志納金150円
竹筒が置いてあるのみだった
今は「拝観料」となっています
◆◆◆ 昔と「同じ角度」の写真はないのですが、「現在の写真」もいくつか掲載しておきます。 ◆◆◆・・・
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寂光院の少し手前にある「
建礼門院
大原西陵」
(撮影:2007−9−14)
平家滅亡後の「建礼門院」の略歴
養和元年(1182)
(11月)
「中宮」平徳子は院号宣下を受け「建礼門院」となった(28歳)。
元暦2年(1185)
(3月)
壇ノ浦の戦いで救命された建礼門院は、不問となり、洛東吉田にあった「前権律師・実憲の里坊」に入って出家し「法名」
真如覚
となった(4月)。
法名から推定するに、里坊は洛東吉田の
真如堂
のいずれかの「坊」と思われる。
同年文治元年(1185)
(9月)
、女院に同行する「阿波内侍」の父(貞憲)が所有する「寂光院」が空いたとのことで、大原へ移った(31歳)。
後白河法皇の大原御幸は文治2年(1186)。
(大原での生活も苦しくなったか)
建久2年(1191)頃、洛東白河の「
善勝寺
」
(現在の
京都市動物園
の南西あたり、女院の妹の夫・四条家・藤原隆房の家の近く)
に移った。
したがって建礼門院が
寂光院に隠棲していたのは5,6年
ということになる。
四条家・藤原隆房に嫁いだ「妹」の名前は伝わっていない。「平清盛の娘」とだけ知られている。
それから約30年後の承久元年(1219)善勝寺が焼失したため、東山「金仙院」
(鳥羽院の権臣・中納言藤原家成が持っていた山荘兼寺)
に移った。
金仙院は、現在の
高台寺
の北裏にあったらしい。
貞応2年(1223)建礼門院は金仙院で亡くなり(69歳)、近くの「
四条家の墓地
」(妹の墓の傍)に葬られた
(現在は金仙院も墓も無いらしい)
。
大原西陵
が建礼門院陵と治定されたのは、明治9年(1876)。
治定の根拠は無い
ようです。