(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
空也の(京都における)足跡
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西暦 | 和暦 | 数え年 | 事跡 | 補足説明 | 関連事跡 |
903 | 延喜3年 | 1 | 誕生(両親、生誕地など不明) | 醍醐天皇の皇子との説がある(が不明、可能性は高い) | 菅原道真没 |
914 | 延喜14年 | 12 | 優婆塞として諸国遍歴を始める | この間、資料によって「年」が異なる(不明確) | |
927 | 延長5年 | 25 | 願興寺(尾張)で(私度)出家、空也を自称 | ||
930 | 延長8年 | 28 | 峰合寺(播磨)で「一切経」読破(念仏へ) | この頃から班田が行われず、荘園が増え続ける | |
この間、阿波、尾張、奥州などで修行・巡錫 | |||||
936 | 承平6年 | 34 | 愛宕山月輪寺で修行 | 平将門の乱、起きる(935) | |
938 | 天慶元年 | 36 | 京へ戻る | 愛宕山で京に戻る決意を固めたか | この年をもって念仏宗を創めるとの資料が多い |
939 | 天慶2年 | 37 | 櫛笥道場(東市外町、現空也堂)で布教 | 東市外町でなく、三条櫛笥という説もある | 天慶の乱(939-941) |
940 | 天慶3年 | 38 | 錦小路西洞院(薬師堂近く)に開創(現空也寺) | 藤原忠平、関白に(941) | |
この間に市の聖の名声が次第に高まる | |||||
948 | 天暦2年 | 46 | 比叡山戒壇院で得度、「光勝」の名を受ける | 天台宗も空也を取り込まざるを得なくなった | |
951 | 天暦5年 | 49 | 十一面観音像・四天王立像造立供養(東山道場) | 東山道場=西光寺の前身(と思われる) 仏像は六波羅蜜寺に今も残る(国宝・重文) | |
963 | 応和3年 | 61 | 鴨川河原で金字大般若経供養 | ||
964 | 応和4年 | 62 | 西光寺草創(道場を寺にした) | 貞元2年(977)(入滅後)六波羅蜜寺に改称 | |
972 | 天禄3年 | 70 | 西光寺で入滅(現在、墓は不明) | 西光寺での最後の言葉は『無覚の聖衆来迎 空に満つ』 入滅時は西光寺に埋葬されたが、保元の乱などで不明に |
雲林院(北大路通大徳寺) | 諸国遍歴 | 愛宕山月輪寺の位置 |
ここで生まれたという説は間違いだろうが、後年一時ここに住んだという記録は否定し難い | 12歳で家を捨て黄色の地で修行した(地の特定はいろいろ説がある) | 赤線が通常の登山ルート。月輪寺に周回する人は少ない(私も1回のみ) |
櫛笥道場(空也堂、三角形(緑)) | 錦小路西洞院(空也寺、三角形(青縁緑) | 比叡山戒壇院(地図の外) |
民衆の多い東市に来て「乞食、その食を貧民と分かち合う」生活(現空也堂は蛸薬師通油小路) | 念仏を称えながら「町を彷徨い、水無き所に自ら井を鑿つ」生活(現空也寺は寺町通仏光寺) | 生涯「空也」であり続けたが、この頃から身を捨てた後(死後の布教)を考え始めたか |
鴨川河原(六条近くらしい、四角形(紫)) | 西光寺(六波羅蜜寺) | 現西光寺(清水坂、丸形(青)) |
今は長閑だが、当時は「処刑などの大催物会場」だった。空也もここを使える程の大物になった | 東市近くの道場がついに「東山(葬送の地)のお寺」に(現在は六波羅蜜寺)なった | 貞元2年(977)六波羅蜜寺建立のとき、空也の墓と西光寺の名跡を清水坂に移したとの説もある |