(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
京都市にある歴史上有名人物の墓
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顕子内親王 | 章子内親王 | 足利尊氏 | 足利義詮 | 足利義教 | 足利義尚 | 足利義政 | 天野屋利兵衛 | 在原業平 |
池大雅 | 石川丈山 | 石田三成 | 和泉式部 | 伊藤若冲 | 伊藤仁斎 | (う) | 菟道稚郎子 | 有智子内親王 |
栄西 | (お) | 尾形乾山 | 尾形光琳 | 織田信長 | 織田信忠 | 小野毛人 | 小野小町 | 小野篁 |
顕子内親王 | 章子内親王 | 足利義政 |
光雲寺に隣接 | 菩提樹院陵(神楽岡南端) | 相国寺の墓地 |
顕子内親王は後水尾天皇の第四皇女、母は皇后東福門院。「昭子内親王」と書くのが正しいとの説もある。母・東福門院(墓は泉涌寺の月輪陵)の菩提寺が光雲寺であることから、ここに葬られた | 章子内親王は後冷泉天皇中宮、父は後一条天皇。中宮退位後は「二条院」。没後、父と同じ菩提樹院陵に葬られた | 義政の遺骨は、当初「大智院」、後に「慈照院」に移され、荒廃後、紆余曲折を経て昭和になって墓地の整理があり3人の墓が並ぶことになった。真ん中が義政の墓 |
天野屋利兵衛 | 在原業平 | 池大雅 |
聖光寺(寺町通綾小路下ル) | 十輪寺の裏山 | 浄光寺の墓地 |
諸説あって確実なことはわからないが、ここには「忠臣蔵の義商」天野屋利兵衛のモデルと思われる「綿屋善右衛門(安田好時)」の墓がある | 写真の宝篋印塔が墓と伝えられるが「超有名人」は墓が多い。大原野上羽町、高島市マキノ町、奈良天川村、奈良不退寺、知立市八ツ橋町 | 安永5年(1776)54歳で没し、遺言により養家・菱屋の菩提寺であるこの寺に葬られた。墓は境内の墓所にある |
石川丈山 | 石田三成 | 和泉式部 |
詩仙堂の東南350mにある舞楽寺山 | 大徳寺三玄院 | 木津川市 |
寛文12年(1672)に没し、正保2年(1645)に築いた寿墳(頑仙祠、上の写真・左半分の右端に描かれている)に葬られた | 三玄院は、天正17年(1589)浅野幸長・石田三成・森忠政が春屋宗園を開祖とし創建した塔頭。関ヶ原の敗戦後、ここに深く埋められた。明治の末漸く墓に改葬された(墓は非公開) | 彼女も「超有名人」なので墓が多い。誠心院の他、宮津市、亀岡市、伊丹市、豊川市、諏訪市、小野田市、奥出雲町など。どれも本当でないと思います |
伊藤若冲 | 菟道稚郎子 | 有智子内親王 |
相国寺の墓地 | 宇治の朝日山山頂 | 嵯峨野の荘址(「緋の社」とも呼ばれる) |
若冲は石峰寺で没し、そこに土葬された(墓もある)。相国寺には明和3年(1766)自ら「生前墓」を建てた。それが昭和になって墓地の整理があり定家・義政と並んだだけ。右が若冲の墓 | 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は第15代応神天皇皇子で、宮内庁が治定した陵は「宇治墓」(三室戸駅近く)ですが、江戸時代は山頂の墓が信じられていた | 有智子内親王は初代斎院。斎院退下後、嵯峨の山荘に住み、没後その山荘の地に葬られた。明治初年、治定された |
栄西 | 尾形乾山/光琳 | 小野毛人 |
建仁寺の開山堂 | 妙顕寺泉妙院 | 崇道神社の奥 |
日本に禅を伝えた栄西は、京都に建仁寺を建立し、その塔頭「興禅護国院」(現在の開山堂)で入定した(その石標が建っている)。墓はここにあるが非公開 | 乾山・光琳兄弟は尾形家一族の菩提寺「興善院」に葬られた。その後、寺の変遷を受け、現在は「妙顕寺の塔頭・泉妙院」に墓は移った。光琳忌などの日に開門される | 小野毛人は遣隋使で有名な小野妹子の子で、小野篁の先祖である。写真は道標で、実際の墓はここから「140m登ったところ」、ご丁寧に「杖」が用意してある |
織田信長 | 織田信忠 | 小野篁 |
大徳寺総見院 | 阿弥陀寺 | 堀川通今出川下ル |
この人も「超有名人」なので墓が多い。総見院は「信長公廟所」とある。本能寺、阿弥陀寺(右)、近江八幡市西光寺、高岡市瑞龍寺など | 石標に「織田信長公本廟」とあり、墓所には「信長と信忠の墓石」が並んでいる。最近はこちらを信じる人が多いようです | 墓碑には「小野相公」とある。なぜ紫式部の墓と並んでここにあるのか |
小野小町 | 角倉了以 | 金森宗和 |
補陀洛寺 | 二尊院境内(の山の上) | 天寧寺の墓地 |
この人ほど墓の多い人はいない。写真は小野小町終焉の地と言われる補陀洛寺にある供養塔(墓ではない)。湯沢市、下関市、栃木市、京丹後市・・・ | 二尊院のパンフレット(境内図)を見ると、確かに「角倉家」の墓がある。知らなかった(訪れていない)。更によく見ると伊藤仁斎の墓もある | 三門の石標に「金森宗和公本塋」(墓のこと)とある。江戸時代の茶人・宗和の墓は「母の墓」と並んでいる(母思いだったらしい) |
祇王 | 紀貫之 | 空也 |
祇王寺境内 | 比叡山から坂本へ下る山中(大津市坂本本町) | 西光寺の墓地 |
左の宝篋印塔が「祇王姉妹と母」の墓、右の五輪塔は「平清盛」の供養塔(墓ではない) | 写真は墓への分岐道標。なぜこんな所にあるのか、墓の真偽も疑問だらけです。京都市内では見つからない。貫之の墓も全国各地にある | 「空也上人廟」という廟所がある。現・六波羅蜜寺辺りに葬られたが、寺建立で現・西光寺辺り(清水坂)に移されたらしい |
九条兼実 | 足利義詮/楠木正行(小楠公) | 熊谷直実 |
最勝金剛院の奥の廟所(八角堂(法華堂)) | 宝筐院の墓所 | 金戒光明寺の「法然廟」の前 |
没後「月輪殿」の裏山に葬られたが、その後、所在不明に。明治になって子孫の九条道孝が、現在の最勝金剛院で墓を探し当て、八角堂を建立した | 足利義詮が自分の墓(左「碎徳」)の隣に楠木正行の首塚(右「精忠」)を並べて葬るよう遺言した。討死した正行の墓は四条畷市にある | 戦後、直実は法然の下で出家し、建永2年(1207)武蔵国熊谷郷で没した。墓は多く、熊谷市、光明寺、高野山、この寺の「法然廟」の前に五輪塔 |
建礼門院 | 小督 | 坂上田村麻呂 |
大原西陵 | 清閑寺 | 山科区勧修寺東栗栖野町 |
平家滅亡後、大原に隠棲したが、5、6年で洛東白河の「善勝寺」に移り、ここで亡くなり「四条家の墓地」(現在不明)に埋葬された。宮内庁の治定する「大原西陵」(写真)は徳子の墓ではない | 高倉天皇は遺詔で清閑寺の傍に葬られたので、小督の墓は「供養塔(手前)のある清閑寺」と考えたいが、京都市は墓は嵯峨にあると主張する。九州の田川市にもあるという | 没後、栗栖野で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅により、甲冑・剣・弓矢をつけた姿で棺に納められたという。有名な将軍塚は田村麻呂の墓ではない |
島左近 | 上西門院 | 定朝 |
立本寺の墓地 | 花園東陵 | 上品蓮台寺の墓地 |
関ヶ原の戦いで敗れたこの戦国の武将は、寺とは少し離れている墓地(下ノ森通仁和寺街道上ル)に土葬されている | 上西門院(統子内親王)は、鳥羽天皇皇女で、弟・後白河天皇の皇后。出家した法金剛院の近く、母・待賢門院の花園西陵の向いにある | 平等院の阿弥陀如来像(国宝)を完成させた4年後(天喜5年(1057))没し、出家したこの寺に埋葬された |
親鸞 | 千利休 | 曽我蕭白 |
大谷祖廟 | 大徳寺聚光院(通常非公開) | 興聖寺の墓所 |
親鸞の墓はややこしい。大谷本廟(西大谷)で火葬され、遺骨は現在大谷祖廟(東大谷)に納められている。しかしどちらも親鸞廟所と呼んでいる | 千利休が「聚光院を開いた笑嶺宗訴」に参禅したことから、この塔頭には千利休の墓をはじめ、三千家歴代の墓がある | 江戸時代に活躍した「異端」の画家・曽我蕭白。一族の墓もここにあり、菩提寺らしい |
待賢門院 | 橘嘉智子 | 豊臣秀吉 |
花園西陵 | 嵯峨陵(右京区嵯峨鳥居本深谷町) | 阿弥陀ヶ峰山頂 |
待賢門院(藤原璋子)は、藤原公実の末娘だが、美貌であるが故に、白河天皇の寵愛を受け、波乱の人生を歩んだ。最後はここに葬られた | 橘清友の娘で、嵯峨天皇皇后になり、橘氏を源平藤橘に押し上げた女性。これも明治になって治定された。一説には「深谷山」に薄葬されたとも | 通常は豊国廟の「登拝料」を払って「長い石段」を登って参拝するのが普通。しかし東山をハイキングしていると自然に到達します |
長澤芦雪 | 新島襄 | 野間玄琢 |
回向院の墓所 | 若王子山山頂 | 北区大宮北東町玄琢 |
芦雪は江戸時代後期の画家。山門に「蘆雪の墓」の石標がある。長澤家の墓所らしく、芦雪の子孫の墓もある | 同志社の創始者・新島襄は「同志社墓地」(若王子山の上)に「妻八重と共に」埋葬された。同志社の学生は山を登って参拝に行く | バス停玄琢で有名な野間玄琢。江戸時代の医師で法印となり、玄琢の地を拝領し、ここに墓が作られた。写真は廟所にある「顕彰碑」 |
式子内親王(のりこ) | 日野富子 | 藤原聖子(きよこ) |
定家葛の塚 | 華開院の墓所 | 月輪南陵 |
没後「白河常光院」に葬られたらしいが、その後所在不明に。伝説として定家葛の塚があり、奥の五輪塔を墓としたい | 「悪女」とも呼ばれた日野富子も、夫・義政、息子・義尚に先立たれ、晩年は寂しかったと伝える。ここにあるのは墓か供養塔か。通常非公開 | 聖子は、関白藤原忠通の娘、崇徳天皇の中宮。崇徳配流後、出家し(皇嘉門院)、60歳前後で没した。所領の最勝金剛院の近くに葬られた |
藤原俊成 | 藤原定家 | 藤原定子 |
東福寺の(最南端)塔頭「南明院」の「飛び地」 | 相国寺の墓地 | 鳥戸野陵 |
「右の五輪塔」が俊成の墓。没後現在の地(往時は「永明院」)に埋葬された(その後「南明院」ができて、その寺域に取り込まれた)。「左の五輪塔」は「浄如禅尼」の墓とされるが、詳細は不明 | 昭和になって整理されて、左端に並んだだけ。厭離庵には「定家塚」(五輪塔)、石像寺に墓と伝えられるものがある。本物は不明 | 藤原道長に圧迫され、失意のうちに崩御した。本人の辞世によって(藤原家女子の)宇治陵でなく、ここに新たに陵を造り埋葬された |
法然 | 本因坊算砂 | 昌子内親王 |
光明寺の火葬塚 | 寂光寺の墓所 | 岩倉陵(「大雲寺の旧地跡」の脇にある) |
法然の墓も難しい。まず「光明寺」で火葬され分骨された。当時の記録では二尊院、知恩院、金戒光明寺。寺の焼失などで「遺骨が残っているか」は不明。その他にも墓・廟所はある | 寺は「囲碁本因坊元祖之道場」であり、石標には「囲碁名人第一世本因坊算砂之旧跡」とあり、山門を潜って行くと墓所に算砂の墓がある | 昌子内親王は、朱雀天皇の皇女で、冷泉天皇の中宮。大雲寺に「観音院」を創り、遺言により観音院に土葬された。陵は明治になって治定された |
曲直瀬道三 | 源経基 | 源通親 |
十念寺の墓地 | 六孫王神社の(現在の)社殿 | 伏見区久我本町 |
安土桃山時代の医師、キリシタンの洗礼も受けた。この寺には足利義教の墓もあるのに、山門には「曲直瀬道三墓所」の石標だけがある | 没後、息子の満仲が(遺言どおり)経基邸内の池の脇(左京八条一坊五町の一部)に墓を造ったが、鎌倉時代以降の戦乱で所在不明に。その地に「新社殿」が作られた時、社殿裏に廟所を作った | (新興住宅の間の狭い敷地に)「久我家の墓所」が残されている。碑には「久我大臣之墓」と刻されている。「源通親」の墓と伝えられている |
向井去来 | 紫式部 | 文覚 |
落柿舎の北側(天龍寺の塔頭弘源寺の境外墓地) | 堀川通今出川下ル | 神護寺境内の鐘楼横から細い山道を上ったところ |
「遺髪」を埋めた「有名な塚」に「去来墓」という駒札が建っている。この墓は江戸後期、落柿舎が弘源寺跡に再興されたときに整備されたらしい。「向井家」の墓は真如堂にある(さて) | この地はかつて雲林院の子院「白毫院」であったというから、ここに墓(五輪塔)があってもおかしくはない。千本ゑんま堂には供養塔が建つ | 京都百名山「065高雄山」(429m)登山道近くに、神護寺を再興した「怪僧文覚の墓」がある。でも文覚の墓も全国あちこちにある |
八橋検校 | 山名宗全 | 与謝蕪村 |
金戒光明寺 | 南禅寺塔頭・真乗院の墓地(寺も非公開) | 金福寺の墓地 |
墓は金戒光明寺の(広大な)墓地の中(文殊塔の東)にある。菩提寺は金戒光明寺の「塔頭・常光院」 | 真乗院を建立した(領地を寄進した、勅願寺にしたとか)縁で、ここに葬られたらしい。山名家先祖累代之墓は杉並区にある | 尊敬する芭蕉の「芭蕉庵」「同碑」を金福寺に造り「我も死して 碑に辺せむ 枯尾花」と詠んだ。その句のとおり、碑と並ぶように埋葬された |
禎子内親王 | 吉田兼好 | 吉野太夫 |
円乗寺東陵 | 長泉寺(右京区御室岡ノ裾町、非公開) | 常照寺の墓地 |
仲睦まじかった夫69後朱雀「円乗寺陵」の「東」に葬られた | 没(観応3年(1352))後、双ヶ丘二の丘西麓あたりの「草庵」に葬られたが、宝永元年(1704)頃、墓は旧跡「長泉寺」に移された | 「2代目吉野太夫」(本名=松田徳子)は江戸時代の島原の名妓、この寺に帰依し、遺言によりここに葬られた |