(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
平安時代末期(保元の乱以降)の天皇
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(末期)院政の構造(年は1155〜1221の下二桁を表示、*:何回か後白河の院政が停止させられたり、高倉が傀儡院政を敷いたりした) | (同左)親子関係(最近は鎌倉時代の開始を1185とするようですが、色分けが難しいので。左図は、緑と青で示した) |
高松殿(受禅の地) | 法住寺殿(院御所) | 法住寺陵(後白河天皇陵) |
77後白河が「保元の乱」勃発時に源義朝・平清盛の軍勢を集結させた所でもある | 蓮華王院(三十三間堂)内に碑を残す。77後白河の数多くある院御所の中でも最大 | 法住寺殿との関係からここに葬られた。現法住寺の左脇から入っていく(土日祝は閉まっている) |
仁和寺(僧侶修行の地) | 香隆寺陵(二条天皇陵) |
59宇多(初代住職を務めた)以降、皇位継承から外れた親王が住職を務めるようになっていた | 仁和寺との関係から「仁和寺の子寺=香隆寺」が78二条の菩提寺となり、その跡地に陵が造られた |
藤原邦綱の東山邸(別名:若松亭)跡(崩御の地) | 清閑寺陵(六条天皇陵) |
小松谷にある現在の正林寺(写真)の近くだったらしい(確かに「六条」と言える) | 後清閑寺陵(80高倉)の後にあって、下の写真では見えない |
(清閑寺にある)小督局の供養塔(宝篋印塔) | 後清閑寺陵(高倉天皇陵) |
手前にあるのが「小督の宝篋印塔」。嵐山には小督塚(一旦隠棲した地)がある | 79六条の陵(清閑寺陵)と同じ区画にある。手前に見えるのが「後清閑寺陵」 |
長楽寺(京都で81安徳を偲べる地) | 大原西陵(81安徳の母徳子の陵) |
81安徳が入水直前まで着ていた直衣を「縫い直した幡」(建礼門院の御手)が納められている | 壇ノ浦から戻った徳子は大原「寂光院」で隠棲(文治元年(1185)から)、寂光院上に葬られたとも |
五辻殿(院御所) | 後鳥羽院 | 刃剣「菊一文字」 | 大原陵(後鳥羽天皇陵) |
浮気性のため、他にも多くの御所がある。ここは後鳥羽のために造られた御所 | 小倉百人一首にも撰ばれている | 後鳥羽院・御番鍛冶(の後裔)が作る「打刃物」を今でも京都で見ることができる | 隠岐で火葬され(島に火葬塚が残る)、遺詔によりこの地に遷された、という |