(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

平安時代末期(保元の乱以降)の天皇           (INDEX:索引へ)


平安時代後期は院政時代(白河上皇の院政開始応徳3年(1086)から)と考えてよいだろう。
後期の中でも末期はと言うと、武士の台頭が顕著になった保元元年(1156)からと考えられる。

末期の天皇は、有名な天皇(77後白河天皇)、82後鳥羽天皇)と、あまり有名でない天皇(78二条天皇79六条天皇80高倉天皇81安徳天皇)に分けられる。
ここでは「あまり有名でない天皇」に少し光を当ててみたい

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(末期)院政の構造(年は1155〜1221の下二桁を表示、*:何回か後白河の院政が停止させられたり、高倉が傀儡院政を敷いたりした)(同左)親子関係(最近は鎌倉時代の開始を1185とするようですが、色分けが難しいので。左図は、緑と青で示した)

高松殿(受禅の地)法住寺殿(院御所)法住寺陵(後白河天皇陵)
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77後白河が「保元の乱」勃発時に源義朝・平清盛の軍勢を集結させた所でもある蓮華王院(三十三間堂)内に碑を残す。77後白河の数多くある院御所の中でも最大法住寺殿との関係からここに葬られた。現法住寺の左脇から入っていく(土日祝は閉まっている)
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仁和寺(僧侶修行の地)香隆寺陵(二条天皇陵)
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59宇多(初代住職を務めた)以降、皇位継承から外れた親王が住職を務めるようになっていた仁和寺との関係から「仁和寺の子寺=香隆寺」が78二条の菩提寺となり、その跡地に陵が造られた
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藤原邦綱の東山邸(別名:若松亭)跡(崩御の地)清閑寺陵(六条天皇陵)
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小松谷にある現在の正林寺(写真)の近くだったらしい(確かに「六条」と言える)後清閑寺陵(80高倉)のにあって、下の写真では見えない

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(清閑寺にある)小督局の供養塔(宝篋印塔)後清閑寺陵(高倉天皇陵)
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手前にあるのが「小督の宝篋印塔」。嵐山には小督塚(一旦隠棲した地)がある79六条の陵(清閑寺陵)と同じ区画にある。手前に見えるのが「後清閑寺陵」
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長楽寺(京都で81安徳を偲べる地)大原西陵(81安徳の母徳子の陵
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81安徳が入水直前まで着ていた直衣を「縫い直した幡」(建礼門院の御手)が納められている壇ノ浦から戻った徳子は大原「寂光院」で隠棲(文治元年(1185)から)寂光院上に葬られたとも
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五辻殿(院御所)後鳥羽院刃剣「菊一文字大原陵(後鳥羽天皇陵)
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浮気性のため、他にも多くの御所がある。ここは後鳥羽のために造られた御所小倉百人一首にも撰ばれている後鳥羽院・御番鍛冶(の後裔)が作る「打刃物」を今でも京都で見ることができる隠岐で火葬され(島に火葬塚が残る)遺詔によりこの地に遷された、という
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