(京都の寺社−今昔−写真比較)
泉涌寺
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正式名称・宗派
:御寺泉涌寺/真言宗泉涌寺派総本山(末寺約65)
開基
:天長年間(824-834)藤原緒嗣の山荘であった地に弘法大師が庵(法輪寺)を結んだことに始まり、その後、月輪寺(つきのわ)、仙遊寺と変遷した。建保6年(1218)月輪大師俊じょう(草かんむりに「仍」)(しゅんじょう)国師を開山に、律・天台・真言・禅の四宗兼学の寺として再建された。開山のとき霊泉が涌いたことから泉涌寺と改めた。「総本山御寺(みてら)泉涌寺」と称し山号を持たない。
住所(昭和40年代の表記)
:東山区今熊野泉山町(行政区画変更により、現在は、東山区泉涌寺山内町)
交通の便:市バス202番など「泉涌寺道」下車(徒歩15分)
特記
:
大門
から
仏殿へ至る参道
が谷間に下るような珍しい配置になっている。四条天皇(87代)および後水尾天皇(108代)から後桃園天皇(118代)まで連続11代の御陵が営まれている月輪十二陵も美しい。大門を入ってすぐの「
楊貴妃観音堂
」には重文の聖観音像(通称:楊貴妃観音像)が安置されている。
関連する東山三十六峰
:
泉山
公式サイト
:
泉涌寺
建物
昭和40年代
現在
(撮影年月日)
1971−3
2007−8−20
大門
から見下ろす
「
仏殿
(重文)
へ至る参道
」
仏殿は
寛文8年(1668)徳川家綱による再建
比較(コメント)
拝観料50円
木が欝蒼として、背後の
「泉山」が見えなくなった
塔頭
:公式サイトでは「山内寺院」として、以下の「9つ」の寺院を紹介している。
即成院
:総門の近く、「光明山」。正暦3年(992)
源信
が伏見に「光明院」を建立したのに始まる。寛治年間(1087-)
橘俊綱
が伏見山荘を造営した際、光明院を「即成院」とした。その後、北岩倉、大亀谷を経て、明治37年(1904)現在の地へ移転し「法安院」とし、昭和16年(1941)名前を「即成院」に復した。
那須与一の墓
がある。
法音院
:本坊の西。嘉暦元年(1326)無人如導が山内に創建。寛文5年(1665)覚雲西堂が現在地に移し再建。
戒光寺
:本坊の北西:安貞2年(1228)後堀河天皇の勅により、八条大宮の東に建立。開山は曇照忍律。その後、再建と移転を繰り返し、正保2年(1645)現在の地で泉涌寺の塔頭になった。本尊釈迦如来立像(丈六)は重文。
悲田院:
別に記載済み
新善光寺
:本坊の西。寛元元年(1243)
後嵯峨天皇
の御願寺として一条大宮に創建。「一條殿」とも。文明5年(1473)現在の地へ移転。
今熊野観音寺:
別に記載済み
善能寺
:本坊の西。弘仁14年(823)空海の開基とも、
嵯峨天皇
の勅願寺で、当初「八条北猪熊」にあった。天文14年(1545)後奈良天皇の命で現在の地へ移転。
来迎院
:本坊の北。空海が「三宝荒神」を祀ったのが始まりとも。弘法大師の「独鈷水」がある。建保6年(1218)月翁智鏡が堂宇を整備し泉涌寺の子院となった。大石内蔵助の茶室「含翠軒」も残る。
雲龍院
:本坊の南。
後光厳院
の思いを受けて竹巌聖皐が創建。後小松・称光など北朝歴代の位牌が祀られている。釈迦如来立像は重文、
走り大黒天
はとみに有名。
◆◆◆ 昔と「同じ角度」の写真はないのですが、「現在の写真」もいくつか掲載しておきます。 ◆◆◆・・・
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大門
(重文)
楊貴妃観音堂
仏殿背後にある舎利殿(府指定文化財)
「本坊」全景
霊明殿
(歴代天皇のお位牌を安置、非公開)
御座所(来訪された皇族方が休憩する居室)
◆ 「塔頭」の写真 ◆・・・
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「即成院」の山門
「法音院」の山門
「雲龍院」の山門