泉山
(INDEX)
独断評価 | 発見難易度 | 登頂体力度 | 頂上眺望度 | 山行愉悦度 | 総合評価 |
5点満点 | ★★★★★ | −−− | −−− | −−− | −−− |
- 山頂の特定(地図)
- 下記にあるように立入禁止になっているため登頂できない。したがって周辺の状況から山頂を特定するしかない。
- 泉涌寺の背後にあって中腹に天皇陵(後堀河(観音寺陵)、孝明)があることを条件にピークを探すと、標高176mのピーク、その少し手前(西)の標高164mピークの2つのピークが見つかる(近くに標高点ピークはない)。
- 地勢的には明らかに標高176m点がこのあたりの最高点であり、山頂と見做すのに相応しい。
- しかし2つのピークが近過ぎるため、泉涌寺近くまで来ると、手前の標高164mピークが邪魔をして標高176mピークは見えない。
- 「泉涌寺背後の山」という点を鑑み(低いけれども)標高164mのピークを山頂と見做すのが適当と考える。
- かつカシミール・数値地図では155mしかないが、地形図の標高164mを採用する。
- 登頂記録
- 泉山全体が宮内庁の管理で立入禁止になっている。
- 泉涌寺側からは立ち入りがたい雰囲気がある。
- 東山テニスコート側からは山道の跡が見られる(この地点が山頂に最も近い)。地元の人の話によれば、以前は今熊野側から泉山越えで泉涌寺へ抜ける人もいたが、昭和天皇崩御の折り周囲を完璧にフェンスで囲ったため入れなくなったとのこと。「マムシ・野犬に注意」の札も多く、とても侵入できない。
- 泉山
- 一言で言えば泉涌寺の背後にあるこんもりとした山。
- 正しく仏殿・舎利殿の背後にこんもりとした山容を見せている。
- 名前のとおり「今熊野(いまぐまの)泉山町」にある。
- 泉涌寺
- 建保6年(1218)月輪大師俊じょう(草かんむりに「仍」)(しゅんじょう)国師開山。律・天台・真言・禅の四宗兼学の寺として始まったが、現在は真言宗泉涌寺派総本山(末寺約65)。
- 天長年間(824-834)藤原緒嗣の山荘であった地に弘法大師が庵(法輪寺)を結んだことに由来する。その後、月輪寺(つきのわ)、仙遊寺と変遷した。開山のとき霊泉が涌いたことから泉涌寺と改めた。
- 承久の変の後、北条氏の指名で即位した後堀河天皇の次の四条天皇(87代)の御陵を定めるとき、京都仏教から忌み嫌われ引き受けところが無かったのを、泉涌寺が引き受けた。その後、後水尾天皇(108代)から後桃園天皇(118代)まで連続11代の御陵が営まれ、月輪十二陵と呼ばれている。
- 大門(国重文・桃山)は慶長年間(1596-1615)に内裏から下賜された四脚門で「東山」の額(張即之(1186-1266)筆)がかけられている。このことから山号を東山(とうざん)としている記述もあるが、泉涌寺自身は「総本山御寺(みてら)泉涌寺」と称し山号を持たない。
- 因みに東山三十六峰の関連仏閣神社で「東山」の名前に関連があるのは、慈照寺、知恩院、長楽寺、泉涌寺の4つ。
- 他にも、建仁寺、光明院(東福寺の塔頭、光明峰を参照)も東山(とうざん)と号する。
- 仏殿(重要文化財)、楊貴妃観音、舎利殿などが有名。
- 悲田院は平安京の東悲田院が移転してきたもの。
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泉涌寺大門から見下ろす「仏殿」(重文) |
泉涌寺「大門」(重文) |
泉涌寺の塔頭の一つ「悲田院」 |
- 近くのグルメ
- 京屋
- 今熊野商店街にあるコロッケ屋。1個45円(H16現在)。一口串カツも安くて美味しい。
- だいたい夕方(時には昼過ぎ)には売り切れるので要注意。
- 残念ながら「閉店」してしまった(H31年3月)。
- 雍州府志での記述
- なし
- (注)「新熊野山」の記述で「泉涌寺山の東北に在り」とあり、矛盾している。泉涌寺山は「泉山」に比定できる。記述忘れか。
- 東山国有林風致計画での記述