華頂山
(INDEX)
独断評価 | 発見難易度 | 登頂体力度 | 頂上眺望度 | 山行愉悦度 | 総合評価 |
5点満点 | ★★ | ★★★ | ★★★★ | ★★★★ | 3.8 |
- 山頂の特定(地図)
- 将軍塚のある一帯が華頂山頂。
- 1万分の1地形図を見ると将軍塚(216m)のやや東に標高点(216m)がある。数値地図を見るとこの一帯、標高が216mである。
- 比較的なだらかな山でポイントの特定は難しい。標高点には標石もなくわからないので明らかに目立つ将軍塚を山頂としたい。
- 緯度・経度・標高は1万分の1地形図の標高点を採用、GPS測定値は将軍塚地点を採用した。参考までに、
- 1万分1地形図標高点は、N34度59分56秒1・E135度47分24秒6。
- 同地点のGPS測定値は、N34度59分55秒9・E135度47分24秒3。
- 将軍塚のGPS測定値は、N34度59分55秒3・E135度47分23秒3。
- 1万分の1地形図の標高点は「寄進札」の一本桜あたり、と考えるのが良い(GPS測定値と登ってみての印象から)。
- 将軍塚は「青蓮院門跡将軍塚大日堂」(青蓮院の飛び地)境内にあり、入園料(H15年現在400円)が必要になる(住所:山科区厨子奥花鳥町)。
- 京都市遺跡地図台帳の記載には次のようにある。
- 標高215mの華頂山山頂部に3基点在する。2・3号墳は首長墓の系譜につながると考えられている。
- 1号墳は山頂(標高点のことか)にあり、内部主体は箱式石棺である。
- 2号墳は大日堂内にあり、内部主体は竪穴式石室であった(今は全壊)。
- 3号墳は「将軍塚と呼ばれ」墳丘径40mの大円墳である。
- 頂上展望台からの眺めは素晴らしく五山の送り火も良く見える。自動車で行けることからデートスポットにもなっている。
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将軍塚のある「大日堂」 |
華頂山頂の将軍塚 |
将軍塚から黒谷(文殊塔)方面の眺め |
- 登頂記録
- 東山トレイルを南から辿って、H06-12-10初登頂。
- 「登山ルート」どおり北側から登るのがわかりやすい。
- 知恩院大梵鐘(除夜の鐘で有名)のある大鐘楼脇の門からも登れる(知恩院−将軍塚ルート)。
- 華頂山
- 一言で言えば知恩院の背後にある大山容。
- 山頂に将軍塚がある。
- 蹴上・岡崎からも東大路通からも知恩院の三門越しに大きく見える。
- 東山三十六峰の中核部で最も目立つ山の一つ。
- 19番の粟田山と連なっていることから粟田山と混同されることも多い。
- この前後の山は、山の「番号」と緯度で若干いれくれになっている(東山三十六峰に関する統計を参照)。
- 読みは難しく「かちょうさん」か「かちょうざん」(濁る)か。「かちょうざん」(濁る)の方が圧倒的に多い。仏教大学の資料でも濁るルビがふってある。
- 「粟田口粟田山南町」にある。
- 知恩院
- 法然上人源空が承安5年(1175)この地に吉水禅房を結んだのが知恩院の起こり。浄土宗総本山(末寺約6,900)、浄土宗系最大。
- 徳川家康が寺域を拡げ、大伽藍となった。
- 鶯張りで知られる大方丈・小方丈・本堂・勢至堂(重要文化財)が有名。
- 慶長年間(1596-1615)に「洛陽東山知恩教院」と呼ばれていたことを示す銘が残っているが、天福2年(1234)弟子の勢観房源智上人が伽藍を建立した折り、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」(かちょうざん・ちおんきょういん・おおたにでら)の寺号を賜った。これが正式名称。
- 住所は「東山区林下町」。
- 近くの仏閣神社
- 青蓮院
- 比叡山東塔南谷に伝教大師最澄が僧侶の住居として建てた「青蓮坊」が始まり。
- 仁平3年(1153)鳥羽法皇によって藤原師実の子・行玄の都の住坊として青蓮院をここに移した。鎌倉時代慈円僧正が門主を勤めたことで知られている。比叡山天台三門跡の一つで、明治になるまでおよそ730年の間に48代の天台座主を輩出した。粟田御所とも青蓮院宮とも呼ばれる。
- 第17代門主尊円法親王は青蓮院流書道を開いた。
- 勅使門の前の大楠は見事。
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知恩院の三門(国宝) |
青蓮院勅使門前の大楠 |
一澤帆布 |
- 近くのショップ
- 一澤帆布
- 今や若い女性御用達の「京都の土産屋」。いつでも店は若い女性でいっぱい。
- 帆布(綿や麻の厚布)で丁寧に作った「カバン」(その他帽子などもある)を売っている。長年の使用で傷んだ時は、実費で修繕してくれる。
- レトロなタグに人気がある。
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粟田山から華頂山頂への道 |
頂上展望台から(吉田山、紫雲山) |
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知恩院三門越しに見る華頂山 |
北大路橋から「粟田山,華頂山,清水山」 |