如意ヶ岳
(INDEX)
独断評価
発見難易度
登頂体力度
頂上眺望度
山行愉悦度
総合評価
5点満点
★★
★★★
★★★★
★★★★★
4.2
山頂の特定(
地図
)
三等三角点(鹿ヶ谷)のある地点
が山頂。
この地点は「大文字山」と呼ばれる
。
この山頂にはかつて「
如意岳(嶽)城
」があった。
京都市遺跡地図台帳には「応仁文明の乱頃(1467-1487)すでに陣塞化。細川高国・
足利義輝
なども城塞を利用。標高466mの山頂を本丸とする。東西尾根約1kmに空堀・土塁・腰郭が良好に残る」と記載されている。
築城は、文明年間(1469-1487)多賀忠高によるという説が有力。
三等三角点は、N35度00分59秒146・E135度48分52秒357、
標高465.44m
。
三角点の他に、建設省国土地理院の「菱形基線測点」(八角形の大きな石標)も置いてある。
登頂記録
H06-12-10初登頂。
このときは「登山ルート」のとおり「霊鑑寺」から「大文字四辻」を経て登った。霊鑑寺に沿って東へ登る道は「談合谷路」といわれる。
如意ヶ岳
一言で言えば
「大」の字が付いている標高465mの三角点のある山
。
東山三十六峰の中心の山と言ってよい。
誰でも簡単に見つけられる。
国土地理院の地図には「大文字山」と書かれている。
間違いを避けるためにも
私も大文字山と呼びたい
。
本当の如意ヶ嶽はさらに東へかなり進んだところ
にある。京都市内からは見えない、標高は472m。
山頂からは南方面が開けているだけだが、「大」の字の
火床からは京都市街が気持ち良く一望できる
。
読みは意外と難しく「にょいがたけ」か「にょいがだけ」(濁る)か。「にょいがたけ」(濁らない)の方が多いようではある(雍州府志の現代語訳では濁るルビがふってある)。
山頂は「鹿ヶ谷大黒谷町」にある。
五山送り火
延徳元年(1489)の初盆に相国寺の僧横川景三が火を灯したのが最初と言われる。
記録としては船橋秀賢の日記に、慶長8年(1603)送り火が行われた、とある。
江戸時代
は
こんな風
に送り火を鑑賞したらしい。
送り火の良く見える場所
大文字
賀茂川・鴨川の堤防(荒神橋〜御薗橋)
妙
北山通(ノートルダム女学院附近)
法
高野川堤防(高野橋北)
船形
北山通(北山橋から北西)
左大文字
西大路通(西院〜金閣寺)
鳥居形
松尾橋・広沢の池
多くの送り火の見える場所(無料)
将軍塚公園展望台
(ただし妙法見えず)
船岡山公園頂上
(ただし鳥居形見えず)
将軍塚公園展望台は写真中央(やや左)の「土の見える所」
船岡山公園頂上(写真では、左に「左大文字」、右に「船形」)
近くのポイント
大文字四辻
東山の稜線上に「東山三十六峰」縦走のポイントとなる四差路がある。西は霊鑑寺から登ってくる道、北は大文字山へ登る道、南は南禅寺方面へ下る道、東は三井寺へ抜ける道になっていて、場所としても拓けている。
雍州府志での記述
如意嶽
東山の頂を如意が嶽と謂う
。細川晴元・六角定頼がここに城を築いた。
(注)「山頂の特定」参照。雍州府志の築城の記述は誤り。多賀忠高が築城後、数多くの武将(細川晴元・六角定頼もその一人か)が増改築して戦闘に使った、というのが正しい。
如意寺の跡が如意が嶽東辺に在る。
(注)如意寺は園城寺(現・三井寺)の別院。
(注)遺跡から判断して、如意寺は標高は472mの如意ヶ岳の南側(すなわち大文字山の東)に展開されていたとされる。
東山国有林風致計画での記述
如意ヶ嶽
鹿ヶ谷の上に聳え
中腹を大文字山と云う
。
(注)したがって「東山国有林風致計画の如意ヶ嶽」=標高472mの如意ヶ岳
中尾山
中尾山
を参照。
比定
如意ヶ嶽/中尾山
以上の資料からは、この2つの山は両方とも「如意ヶ岳」に比定するのがよい。
しかし東山三十六峰を連峰として形成するために
「
私が選定した東山三十六峰
」では
東山国有林風致計画と同様
「
中尾山
」を独立した山と見做した
。
神楽岡から見る如意ヶ岳
山頂から南側(阿含宗、花山天文台)
山頂の菱形基線測点
山頂の三角点
大文字四辻
(登る方向=北)
談合谷路にある「俊寛僧都忠誠之碑」