京都の街角写真
下ノ森通
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西側 | 南北位置 | 東側 | ||
本門佛立宗「本山宥清寺」(ゆうせいじ) 延慶元年(1308)日弁上人(日蓮の弟子)の開創。明治2年(1869)日扇聖人が中興し、戦後本門法華宗から分離独立した。やや経緯は難解。 (一条上ル) (撮影:2016/5/3) |
笹屋町下ル (今小路とも) 一条上ル ページの先頭 |
「阿国歌舞伎発祥の地」 少し東の「一条七本松」にあるが「発祥地=北野松原下ノ森」とあるからここに掲載した。四条にも阿国像、阿国歌舞伎発祥地石碑もあってややこしい。 (一条上ル) (撮影:2022/12/9) |
西側 | 南北位置 | 東側 | ||
「漆室跡」 大内裏の北西域に当時「漆室(うるしむろ)」があった。その位置に説明板が建っている。 (仁和寺街道上ル) <平安>大内裏(漆室) (撮影:2022/12/9) |
(本格的な始まりはここから) 一条下ル 丸太町上ル ページの先頭 |
「東西に抜ける辻子(ずし)」 この界隈は東西方向に「辻子、路地」が多い。この辻子は「下ノ森通から七本松通へ東西に抜ける辻子」。 (一条下ル) <平安>大内裏(兵庫寮) (撮影:2022/12/9) |
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「島左近の墓」 戦後時代の武将「島左近」の墓が立本寺(七本松通)の墓地にある。墓地は寺とは離れて下ノ森通にある。 (仁和寺街道上ル) <平安>大内裏(漆室) (撮影:2022/12/9) |
「ひがき木匠」 建具などを作っている木工職人らしい。詳細はわからない。 (下長者町下ル) <平安>大内裏(図書寮) (撮影:2022/12/9) |
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「和田屋Cafe」 なんとなく「和風」の喫茶店。姉妹で経営されているらしい。焼きそばもあるから、他にもいろいろあるのか。 (丸太町上ル) <平安>大内裏(左馬寮) (撮影:2022/12/9) |
「仁丹町名表示板」は 「下ノ森通」ではなく「相合ノ図子(あいあいのずし)通」となっている。 (下立売下ル) <平安>大内裏(造酒司) (撮影:2022/12/9) |
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「京都予防医学センター」 「丸太町通」にあると言った方が適切か。私は退職後ここに「健康診断書」を作りに行ったことがある。 (丸太町上ル) <平安>大内裏(左馬寮) (撮影:2022/12/9) |
「じゅらく児童館」 「小雀(こじゃく)ひろば」も併設している。この界隈は中京区では珍しく聚楽廻と冠される。 (丸太町上ル) <平安>大内裏(典薬寮) (撮影:2022/12/9) |
西側 | 南北位置 | 東側 | ||
「蛮子民宿 二条城 竹」 最近はやりのGuestHouse。中国人向けだろうが「蛮子」とはへりくだり過ぎ、と思う。 (旧二条上ル) <平安>大内裏(左馬寮) (撮影:2022/12/9) |
丸太町下ル 二条上ル ページの先頭 |
「佛勅山顕正寺 京都事務所」 日蓮宗。「京都事務所」とあるから「お寺」ではないのだろうが、それにしては「立派な題目石標」が建っている。 (旧二条上ル) <平安>大内裏(御井) (撮影:2022/12/9) |
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「修美社」おもしろ印刷 昭和35年(1960)創業。印刷職人が始めた会社。おもしろそうな印刷なら、引き受けてくれそう。 (旧二条下ル) <平安>大内裏(右馬寮) (撮影:2022/12/9) |
「花の湯」 昭和29年(1954)創業。レトロな雰囲気のある「ほっこり、まったり」の銭湯。 (二条上ル) <平安>大内裏(諸陵寮) (撮影:2022/12/9) |
「西ノ京中学校」 それ程大きな学校ではないのに、なぜ通りを中断したのか。 <平安>学館院 |
「二条通」南のところで「下ノ森通」を遮っている。 「押小路通」の1本北の道から「下ノ森通」は復活。「南行きの一方通行」に戻る。 (撮影:2022/12/9) |
西側 | 南北位置 | 東側 | ||
「朱雀公園」 大きな公園で「西ノ京中学校」と東西を接している。西端は御前通に面する。かつては学館院があったところ。 (二条下ル) <平安>学館院 (撮影:2022/12/9) |
二条下ル 三条上ル ページの先頭 |
「青木はり治療院」 「下ノ森通」の広さはこんなもの。 (御池上ル) (撮影:2022/12/9) |
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「マイタ印刷」 この界隈はなにも無い。 (三条上ル) (撮影:2022/12/9) |
「西ノ京西月光町」 ここで大きくクランクし、一部姉小路通と重なる。 「月光稲荷大明神」に会える。 (姉小路) (撮影:2022/12/9) |
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三条通で「田中屋」に突き当たる。 この先はもう通りとは言えない。 |
三条通の南は「壬生」地域である。 (三条) (撮影:2022/12/9) |