(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典:番外)
杉並区に墓のある歴史上の有名人
(INDEX:杉並区の索引へ)
人物名 | 没年 | 墓地所在地 | 略歴 | 補足 | 概観へのリンク |
武田信恵 | 永正5年(1508) | [79]富聚山長龍寺 (高円寺2丁目31番2号) |
戦国時代の武将、甲斐国勝山城主、武田信玄の大叔父で、山梨郡油川に拠ったことから「油川信恵」を名乗った。武田家内訌で、武田信虎に討たれた。 | 油川信貞(信恵の甥=信虎の孫=仁科盛信の子、徳川家康の旗本)がこの寺(文禄2年(1593)現千代田区内に開創)を菩提寺にしたことから、信貞が先祖を祀るためこの寺に墓を構えたらしいが、遺骨があるかは疑わしい。この寺は明治42年(1909)移転してきて、結局は墓は撤去された。 | |
長坂信政 | 元亀3年(1572) | 三河松平氏(のち徳川氏、清康の頃)の家臣。槍働きで功名を挙げたため「血鑓九郎」の異名を与えられた。子孫は徳川家旗本になった。 | 長龍寺にはこの他、山名宗全の「山名家本家」(先祖は現高崎市の出)、さらには江戸時代の、幕府御使番「河野氏」、徳川に繋がる「滝脇松平家(世良田家)」、「旗本・名家76家」の墓がある。 |
[79]富聚山長龍寺(高円寺南2丁目31番2号) | |
【長坂信政】は累代墓に埋葬されている模様 | 【山名家先祖累代之墓】安永5年(1776)建立(山名宗全の墓は京都南禅寺に) |
人物名 | 没年 | 墓地所在地 | 略歴 | 補足 | 概観へのリンク |
今川氏真 | 慶長20年(1615) | [3]宝珠山観泉寺 (今川2丁目16番1号、写真) |
今川義元の子(12代今川家当主)。後に徳川家康に臣従し、幕府高家になった。【今川家累代の墓】(東京都指定旧跡)がここ杉並にできたことで「今川」の地名をここに残すことになった。 | 氏真の嫡孫今川直房が万昌院(現市ヶ谷)にあった祖父今川氏真の墓を観泉寺に移転(正保2年(1645))し(併せて母の墓も)、以来今川家累代の墓が作られた。移転したとあるので、氏真の墓はこの寺にあると思われる。直房自身の墓【写真】は万昌山長延寺にある。 | 概観へ |
安藤重信 | 元和7年(1621) | [144]村高山栖岸院 (永福1丁目6番12号、写真) |
徳川家の武将。小牧長久手、関ヶ原で戦い、慶長16年(1611)老中に。その後、下総小見川藩主から上野高崎藩主。兄直次(老中)の墓は岡崎市妙源寺にある。 | 栖岸院(知恩院系の愛知県長福寺が天正19年(1591)麹町に移転した)の寺歴の関係で、この寺に埋葬された。寛永16年(1639)重長は父(重信)の弔いのため中興開基になって寺を整備した。この寺は大正9年(1920)杉並に移転してきた。最近安藤家の墓は愛知に戻したらしく今は無い。 | |
保科正貞 | 寛文元年(1661) | [68]泉谷山大円寺 (和泉3丁目52番18号、写真) |
保科正直の三男だが保科正光の養子になり(この後、保科正之(実は徳川秀忠の落胤)も正光の養子になったので苦労したが)、功を重ね上総飯野藩の初代藩主となった。 | 大円寺(慶長8年(1603)徳川家康開基、赤坂溜池)は、開山の諦巌桂察和尚(武田信玄の弟)の縁から飯野藩保科氏の菩提寺になったという。生母長元院、3代〜9代藩主の墓もある【写真】。この寺は寛永18年(1641)伊皿子を経て明治41年(1908)杉並に移転してきた。 | |
高木正盛 | 寛文10年(1670) | [144]村高山栖岸院 (永福1丁目6番12号、写真) |
江戸時代前期の大名。河内丹南藩4代藩主。幕府では大番頭まで務めた。父3代正弘は京都黒谷金戒光明寺(栄摂院)に墓がある。 | 藩祖高木正次が武蔵国(他に相模なども)を領する旗本であった縁か、栖岸院(安藤重信を参照)を菩提寺とし、4代(正盛)〜12代(最終、正担)藩主の墓もできた(詳細は不明)。この寺は大正9年(1920)麹町から杉並に移転してきた。 | |
岡部忠豊 | 延宝3年(1675) | [31]月光山天桂寺 (成田4丁目17番14号、写真) |
戦国大名小田原北条氏の家臣であった岡部吉正は文禄2年(1593)徳川家康に仕え、武蔵国都筑郡に領地を持つ旗本になった。(吉正から見て)父忠吉、子吉次、孫忠豊の経歴はよくわからない。 | (忠豊から見て)曾祖父忠吉が天桂寺を創建、祖父吉正が【墓】を整備。岡部忠豊が延宝3年(1675)この寺に葬られて以降、岡部一族の墓ができた。この岡部氏がこの寺の参道に杉並木を整備したことが「杉並」の地名の起源となった。 | 概観へ |
稲葉正休 | 貞享元年(1684) | [94]報新山宗延寺 (堀ノ内3丁目52番19号、写真) |
父正吉の美濃青野の領地を継ぎ、小姓組番頭に。その後、若年寄、美濃青野藩の大名となった。貞享元年(1684)意見の違いから江戸城内で大老堀田正俊を刃傷し、その場で付近にいた同僚に殺された。 | 宗延寺は小田原で創建され、天正19年(1591)現東上野に移転。この寺が稲葉家の菩提寺であったことから(この経緯は不明)正休の遺骸はこの寺に葬られた【写真】。この寺は大正8年(1919)杉並に移転してきた。 | |
浜田屋弥兵衛 | 江戸時代前期 | [90]法真山理性寺 (永福3丁目56番29号、写真) |
内藤新宿の大商人(「浜田山」の地名の起源とも)。元々は現浜田山の山中に墓があったが、明治20年代浜田山が人手に渡る折、墓は当時の理性寺(新宿)に移された。寺の移動に伴い、【現在の地】へ。 | 理性寺(承応3年(1654)大久保忠辰開基、現新宿)は大正3年(1914)杉並に移転してきた。他に、正木頼忠(養珠院の父、元和8年(1622)没)の墓、養珠院(徳川家康の側室、承応2年(1653)没)の“分骨墓”がある。 | 概観へ |
宝珠山観泉寺(今川2丁目16番1号) | 月光山天桂寺(成田東4丁目17番14号) | 法真山理性寺(永福3丁目56番29号) |
【今川氏累代墓】(今川氏真の墓も) | 【岡部一族の墓】が一角を占めている | 塔婆には【浜田屋弥兵衛】とある |
人物名 | 没年 | 墓地所在地 | 略歴 | 補足 | 概観へのリンク |
土肥黙翁 | 享保11年(1726) | [80]万昌山長延寺 (和田1丁目44番24号、写真) |
江戸時代前中期の儒者。越後の人。坂井漸斎に学び、下谷で子弟に教えた。名は政平、通称は左仲、別号に堪斎、自観居士。著作に「狎草」「須留毛余志」などがある。 | 長延寺(文禄3年(1594)市ヶ谷に開創、明治42年(1909)杉並に移転)が市ヶ谷にあった頃の縁でこの寺に埋葬されたか【写真】。 | |
本因坊6世知伯 | 享保18年(1733) | [19]宝光山妙正寺 (清水3丁目5番10号、写真) |
父は武州多摩郡井草村の百姓井口半衛門で、13歳四段格で本因坊道知の跡目となる。さらに知伯が家督を継いで、6世本因坊になるが、24歳六段で急逝。法名は日了。 | 妙正寺は文和元年(1352)日祐上人が妙正寺池畔に三十番神堂を建立して以来、綿々とこの地にあり、知伯の父が井草村の出であるから、この地に【墓】があって当然である。 | |
市川団蔵 | 元文5年(1740) | [107]寂静山潮音閣法照寺 (永福1丁目6番11号、写真) |
父は松本四郎三郎。元禄6年(1693)頃初代市川団十郎の門人となる。荒事・実事・敵役などをよくし、市川団蔵系統の祖になった。子が2代目市川団蔵、養子が3代目市川団蔵を継いだ(弟は初代市川団三郎)。 | 法照寺は鎌倉で開創され、天正18年(1590)湯島へ移転。昭和3年(1928)杉並に移転してきた。この湯島時代の縁でこの寺に埋葬されたか。初代〜3代目が1つの墓石にまとめられている。 | |
久野鳳湫 | 明和2年(1765) | [94]報新山宗延寺 (堀ノ内3丁目52番19号、写真) |
江戸時代中期の儒者。江戸出身。林榴岡に師事、荻生徂徠に傾倒。尾張名古屋藩儒となり、藩主徳川宗勝の侍読を勤める。本姓は小谷、名は俊明、字は彦遠、酔中。通称は彦八郎。著作は「左伝杜註補」「春秋釈例図」など。 | 宗延寺(稲葉正休を参照、大正8年(1919)杉並に移転)が東上野にあった頃の縁でこの寺に埋葬されたか。 | |
伊庭可笑 | 天明3年(1783) | [90]法真山理性寺 (永福3丁目56番29号、写真) |
江戸時代中期の戯作者。江戸の人。天明の初めごろを頂点に34部の黄表紙を書いた。通称は猪与八、別号に堪亭。著作に「扨化狐通人」「化物世櫃鉢木」などがある。 | 理性寺(浜田屋弥兵衛を参照、大正3年(1914)杉並に移転)が新宿にあった頃の縁でこの寺に埋葬されたか【写真】。 |
万昌山長延寺(和田1丁目44番24号) | 宝光山妙正寺(清水3丁目5番10号) | 法真山理性寺(永福3丁目56番29号) |
土肥家の隣に【土肥黙翁】(自観居士)之墓 | 井口家墓の裏でひっそり佇む【本因坊】の墓 | 立派に独り立ちしている【伊庭可笑】の墓 |
人物名 | 没年 | 墓地所在地 | 略歴 | 補足 | 概観へのリンク |
内山賀邸 | 天明8年(1788) | [88]瑞祥山鳳林寺 (高円寺南2丁目39番1号、写真) |
江戸中期の狂歌師(写真)。江戸牛込加賀町に住した幕臣で、近隣の子弟に国学・歌学を教えた。狂歌も好み、多くの門人を輩出した。通称は伝蔵、名は淳時、別号は椿軒。著作に和歌「遺珠集」、狂歌「明和十五番狂歌合」などがある。 | 杉並区のHPによれば、鳳林寺(永禄元年(1558)開創、江戸牛込、大正3年(1914)杉並に移転)には「多賀谷楽山・向陵・酔雪(幕末)、金井莎邨【写真】」の墓がある。 | |
山村良旺 | 寛政9年(1797) | [114]普明山西照寺 (高円寺南2丁目29番3号、写真) |
江戸時代中後期の旗本で、京都西町奉行(鬼平こと長谷川備中守宣雄の後任)、勘定奉行、江戸南町奉行などを歴任した。 通称は数馬、七郎右衛門、十郎右衛門。 | 西照寺(天正2年(1574)開創、日比谷、その後、芝に移転、明治44年(1911)杉並に移転)は多くの旗本が菩提寺にした。その縁でこの寺に葬られたか【写真】。 | |
赤崎海門 | 享和2年(1802) | [68]泉谷山大円寺 (和泉3丁目52番18号、写真) |
薩摩藩の武士、漢学者。諱は貞幹、通称は源助、字は彦礼、号は海門。島津斉宣の侍読になった。「称名墓志」によると南林寺(鹿児島、今は廃寺)にあった墓石には文化2年(1805)死去とある。 | 南林寺から大円寺(慶長8年(1603)徳川家康開基、赤坂溜池、寛永18年(1641)伊皿子を経て明治41年(1908)杉並に移転)へ墓を移したと思われる(往時島津家の菩提寺)。大円寺にはこの他、鞍岡蘇山(寛延3年(1750)没)の墓もある。 | |
前野良沢 | 享和3年(1803) | [87]月高山慶安寺 (梅里1丁目4番24号、写真) |
江戸時代中期の蘭学者で、中津藩の藩医。名は熹、字は子悦、号は楽山、蘭化。良沢は通称。杉田玄白らと刑死体の解剖を見学したのをきっかけに、「解体新書」を完成させた。 | 慶安寺(寛永4年(1627)開創、江戸下谷、老中阿部忠秋を始め多くの旗本が菩提寺にした、大正2年(1913))杉並に移転)。当然下谷時代のこの寺に埋葬されたか【写真】。 | |
三陀羅法師 | 文化11年(1814) | [108]応供山等正寺 (本天沼3丁目41番7号、写真) |
江戸時代中後期の狂歌師。神田に住む。唐衣橘洲門下から千秋一派を率いた。姓は赤松、のち清野、名は正恒。別号に一寸一葉、千秋庵。編著「狂歌三十六歌仙」「狂歌三陀羅かすみ」など。 | 等正寺(元和8年(1622)不退院玄証が開創、江戸湯島、元禄17年(1704)本郷に移転、昭和4年(1929)杉並に移転)の本郷時代のこの寺に埋葬されたか。 | |
家城源七 | 文化13年(1816) | [101]如法山長善寺 (高円寺南2丁目40番50号、写真) |
江戸時代後期の金工、打ち物師。江戸城西丸の御用を務めた。門弟に錺師(かざりし)初代鈴木長翁斎がいる。 | 長善寺(天正18年(1590)円立院日義が開創、谷中、大正15年(1926)杉並に移転)。谷中の縁でこの寺に葬られたか。 | |
永田正道 | 文政2年(1819) | [86]片岡山智光院 (松ノ木3丁目33番30号、写真) |
江戸時代の旗本。官位は備後守。勘定奉行、北町奉行(遠山の金さんの2代前)を歴任。 | 智光院(寛永7年(1630)開創、上野、元禄11年(1698)浅草へ、昭和元年(1926)杉並に移転)の浅草時代のこの寺に埋葬されたか。 | |
中井董堂 | 文政4年(1821) | [102]柳水山浄見寺 (永福1丁目6番9号、写真) |
江戸時代後期の書家、狂歌師、戯作者。江戸出身。書は明の董其昌(1636年没)に傾倒、狂歌の師は大田南畝。狂詩集「本丁文酔」、洒落本「狂訓彙軌本紀」がある。 | 浄見寺(慶長15年(1610)開創、京都伏見、元和7年(1621)築地本願寺の寺中寺として移転、昭和3年(1928)杉並に移転)の築地時代のこの寺に埋葬されたか。 | |
馬場轂里 | 文政5年(1822) | [94]報新山宗延寺 (堀ノ内3丁目52番19号、写真) |
江戸時代後期のオランダ通詞、蘭学者。長崎の出。名は貞由だが、佐十郎の通称で知られる。号は穀里(こくり)。天文方蕃書和解御用に出仕し、ゴローニン事件を始め、当時頻発していた外国船来航に対する応対や外交文書の翻訳にあたった。 | 宗延寺(稲葉正休を参照、大正8年(1919)杉並に移転)が東上野にあった頃の縁でこの寺に埋葬されたか。 | |
平山行蔵 | 文政11年(1828) | [81]天長山永昌寺 (永福1丁目6番15号、写真) |
江戸時代後期の儒者、兵法家。江戸出身。幕臣。兵法を研究して武芸百般に通じた(剣は達人)。文化4年(1807)北辺鎮定のため蝦夷出兵を幕府に上書した。名は潜。通称は行蔵(こうぞう)。字が子竜、号は兵原(へいげん)、練武堂。著作に「海防問答」「孫子折衷」など。 | 永昌寺(寛永元年(1624)開創、江戸四ッ谷、明治43年(1910)杉並に移転)。四ッ谷が縁でこの寺に葬られたか【写真】。 | |
鈴木重明 | 天保2年(1831) | [78]永昌山宗泰院 (高円寺南2丁目31番5号、写真) |
江戸時代後期の剣術家。江戸の人。初め尾張名古屋藩に仕え、岡田十松(神田撃剣館主)に神道無念流(桂小五郎、芹沢鴨などもこの流派)を学び、工夫を加え「鈴木派無念流」を開いた。通称は斧八郎、のち大学。 | 宗泰院(天正12年(1584)格峰泰逸和尚が開創、江戸麹町、元和2年(1616)市ヶ谷に移転、明治42年(1909)杉並に移転)の市ヶ谷時代のこの寺に葬られたか。 | |
足立渓隣 | 弘化2年(1845) | [94]報新山宗延寺 (堀ノ内3丁目52番19号、写真) |
江戸時代後期の天文学者、幕臣。大阪の人。名は信頭、字を子秀、号は渓隣、通称佐内。寛政8年(1796)から天文方の下役になり、天保6年(1835)天文方を拝命。天保の改暦(天保15年(1844)、渋川景佑)に功績があった。 | 宗延寺(稲葉正休を参照、大正8年(1919)杉並に移転)が東上野にあった頃の縁でこの寺に埋葬されたか。 | |
池田英泉 | 嘉永元年(1848) | [143]祥雲山福寿院 (高円寺南2丁目40番5号、写真) |
江戸時代後期の浮世絵師。本名は池田義信または茂義。字は混声、通称善次郎、号は渓斎、旡名翁 (むめいおう)など。文政5年(1822)頃から美人大首絵に専念。代表作は木曾海道69次(安藤広重との合作)。晩年は戯作者、著書『旡名翁随筆』。 | 福寿院(天正19年(1591)雪庭春積が開創、江戸四谷、明治40年(1907)杉並に移転)。四谷の縁でこの寺に葬られたか。この墓は東京都指定旧跡になっている。 | |
土生玄碩 | 嘉永元年(1848) | 築地本願寺和田堀廟所 (永福1丁目8番1号、写真) |
江戸時代後期の眼科医。安芸吉田で眼科医の子として生まれた。文化6年(1809)幕府の御殿医。国禁を侵して学んだ開瞳術西洋眼科の始祖。名を義寿、幼名は久馬、はじめ玄道と称し、のち玄碩、号は桑翁、字は九如。 | 築地本願寺和田堀廟所は「築地本願寺」(元和3年(1617)浅草に建立(浅草御堂)、延宝7年(1679)築地で再建(築地御坊))の被災を受けて昭和9年(1934)に新しく建立したもの(このとき築地で再建されたのが「築地別院」)。したがって「築地御坊」に埋葬されたのだろう。 | |
魚屋北渓 | 嘉永3年(1850) | [153]長広山立法寺 (和田2丁目16番13号、写真) |
江戸時代後期の浮世絵師。江戸四谷の人。本名は岩窪辰行、俗称は初五郎、のち金右衛門。字は拱斎、号は葵岡 (きこう) 。魚屋だったので魚屋北渓と呼ばれた。初め狩野雅信に習い、のち葛飾北斎に師事。主要作品は「諸国名所」「古今狂歌撰」。 | 立法寺(永正3年(1506)長廣院日立上人が開創、江戸赤坂、享保17年(1732)千駄ヶ谷に移転、大正8年(1919)杉並に移転)の千駄ヶ谷時代のこの寺に葬られたか。 | |
佐藤信淵 | 嘉永3年(1850) | [92]万寿山松応寺 (高円寺南2丁目30番1号、写真) |
江戸時代後期の農政学者。出羽の人。通称百祐、字を元海、号は椿園、融斎、松庵。父信季との旅行で見聞を広め、江戸に出て宇田川玄随、平田篤胤らに学んだ。水野忠邦の下問に「復古法概言」を著述。筆禍によりしばしば江戸から追放された。 | 松応寺(明暦2年(1656)開創、浅草、大正7年(1918)杉並に移転)は与力・同心など武家寺として栄えた。その縁でこの寺に葬られたか。 |
人物名 | 没年 | 墓地所在地 | 略歴 | 補足 | 概観へのリンク |
辻元ッ庵 | 安政4年(1857) | [99]天羅山善養院真盛寺 (梅里1丁目1番1号、写真) |
江戸時代後期の医師。播磨林田藩医の子として生まれる。多紀元簡(幕府医学館考証派の儒医)に学び弘化4年(1847)幕府奥医師に。名は「すうあん」、字は山松、別号に冬嶺。著作に「脚気集要論」。しかし時代は儒医から蘭方医に移りつつあった。 | 真盛寺(寛永8年(1631)開創、江戸湯島、元禄元年(1688)本所に移転、三井高利が越後屋創業して以来の菩提寺で、三井寺とも称されている、大正11年(1922)杉並に移転)の本所時代のこの寺に葬られた(確定)。 | |
松亭金水 | 文久3年(1863) | [76]松栄山大法寺 (松ノ木3丁目33番19号、写真) |
江戸後期の読本・人情本作者。江戸の人。本名は中村経年または保定。別号に積翠道人など。書道家谷金川に学び習字の師匠となり、作家為永春水の弟子に。よって名を金水とした。著作は人情本「閑情末摘花」など。 | 大法寺(寛永8年(1631)利生院日善が開創、江戸牛込、明治42年(1909)杉並に移転)。地の縁か、牛込のこの寺に葬られた(確定、【写真】)。中野硯翁(清茂)(徳川家斉の側近、天保13年(1842)没)の墓も。 | |
鈴木重胤 | 文久3年(1863) | [80]万昌山長延寺 (和田1丁目44番24号、写真) |
江戸末期の国学者。淡路の人。号は橿廼家(かしのや)。国学を志し大国隆正に学ぶ。諸国を遊歴して神道を説き、宗像信仰を再興する運動を行った。最後は江戸自宅で暗殺された。著作は「延喜式祝詞講義」「日本書紀伝」(未完)など。 | 長延寺(土肥黙翁を参照、明治42年(1909)杉並に移転)が市ヶ谷にあった頃の縁でこの寺に埋葬されたか【写真】。 二宮桃亭(医師、文政13年(1830)没)の墓(写真)も。 |
人物名 | 没年 | 墓地所在地 | 略歴 | 補足 | 概観へのリンク |
横山安武 | 明治3年(1870) | [68]泉谷山大円寺 (和泉3丁目52番18号、写真) |
幕末から明治にかけての薩摩藩士、森有礼の兄。島津久光の子悦之助の補導役となる。明治3年(1870)征韓論議反対論の「時弊十条」の建白書をかかげ割腹した。通称は喜三次、元四郎、正太郎。 | 大円寺(慶長8年(1603)徳川家康開基、赤坂溜池、寛永18年(1641)伊皿子を経て明治41年(1908)杉並に移転)の伊皿子時代(当時島津家の菩提寺であった)のこの寺に葬られた(確定)。島津家の関係から、大円寺には「戊辰戦争」関連の戦没者(益満休之助、篠崎彦十郎)の碑(墓、【写真】)もある。 | |
山口和助 | 明治5年(1872) | [97]松苔山峯巌院西方寺 (梅里1丁目4番56号、写真) |
明治時代の政商。山口(周防)の人。長州藩奇兵隊員を経て、維新後横浜で貿易業を始め山城屋和助を名乗る。山県有朋の知遇を得て陸軍の御用商となったが、生糸相場の暴落で陸軍省への返済できなくなり、割腹自殺した。本名は野村三千三。 | 西方寺(元和3年(1617)本蓮社心誉利通が開創、四谷追分、大正9年(1920)杉並に移転)。四谷追分のこの寺に葬られたか。 | |
八田知紀 | 明治6年(1873) | [68]泉谷山大円寺 (和泉3丁目52番18号、写真) |
幕末・維新の鹿児島藩士・歌人。文政8年(1825)薩摩藩の京都留守居下役となり上洛し、和歌を香川景樹に学び「桂園派歌人」として名をなした。のち宮内庁に出仕して歌道御用掛を務めた。通称は喜左衛門、号は桃岡。 | 大円寺(慶長8年(1603)徳川家康開基、赤坂溜池、寛永18年(1641)伊皿子を経て明治41年(1908)杉並に移転)の伊皿子時代(当時島津家の菩提寺であった)のこの寺に葬られたのだろう。 | |
三野村利左衛門清為 | 明治10年(1877) | [99]天羅山善養院真盛寺 (梅里1丁目1番1号、写真) |
幕末から明治初期に活躍した三井組の大番頭。庄内藩士の子。干鰯問屋奉公を経て、両替商で独立。45歳のとき三井入りして、大元方を東京に移転させ三井を立て直した。後年の三井銀行・三井物産のもとを創った。 | 三井家代々の墓地は京都黒谷真正極楽寺(真如堂)にあるが、三野村は三井家ではないので、その功績から東京“三井寺”(真盛寺(辻元ッ庵を参照、大正11年(1922)杉並に移転))の本所時代のこの寺に葬られたに違いない【写真】。 | |
佐瀬得所 | 明治11年(1878) | [114]普明山西照寺 (高円寺南2丁目29番3号、写真) |
幕末・明治時代の書家。清留学で学び、名声高く会津第一の書家と称された。名は恒、字は子象、通称は八太夫、別号に松城。著作に「楷書楽志論」など。 | 西照寺(山村良旺を参照、明治44年(1911)杉並に移転)の芝時代のこの寺に葬られた(確定、【写真】)。西照寺には「戊辰戦争」関連の佐瀬一族(弟の林松山ほか)、小林政灼の墓碑もある。 | |
3代目都々逸坊扇歌 | 明治13年(1880) | [108]応供山等正寺 (本天沼3丁目41番7号、写真) |
音曲師。本名は斎藤豊吉。上方出身の僧侶とも日本橋室町の乾物屋の子とも。子供のとき足を痛め不自由になったので、常磐津に弟子入り。慶応元年(1865)には都々逸で「扇歌」を名乗った。襲名時期など詳細不明。 | 等正寺(三陀羅法師を参照、昭和4年(1929)杉並に移転)の本郷時代のこの寺に葬られたか【写真】。 | |
6世川柳 | 明治15年(1882) | 築地本願寺和田堀廟所 (永福1丁目8番1号、写真) |
川柳師。江戸佃島生れ。5世川柳(同和田堀廟所に埋葬)の長子。始め佃島の魚問屋を継いだが、父の死で6世に(明治時代初めての宗家)。柳風狂句を組織して「柳風会」を創設。本名は水谷金蔵。「親類は笑ひ寄りする賀の祝ひ」は明治24年(1891)の作。 | 和田堀廟所(土生玄碩を参照、昭和9年(1934)に新しく建立した)の「築地御坊」時代に埋葬された(確定)。5世川柳の墓もここ。 | |
樋口一葉 | 明治29年(1896) | 築地本願寺和田堀廟所 (永福1丁目8番1号、写真) |
小説家。明治5年(1872)千代田区で生まれ、本名は夏子、戸籍名は奈津。中島歌子に和歌を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら(引越12回)、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表。24歳肺結核で死去。 | 和田堀廟所(土生玄碩を参照、昭和9年(1934)に新しく建立した)の「築地御坊」時代に埋葬された(確定、【写真】)。 | |
2代目寶山左衛門 | 明治43年(1910) | [107]寂静山潮音閣法照寺 (永福1丁目6番11号、写真) |
歌舞伎の長唄囃子方で、鼓の名手。江戸日本橋の生まれ。本名は田中次郎衛門。5代目望月太左衛門の門弟であったが、継承で揉めて、結局は振付師花川蝶十郎(初代山左衛門の実子)から2代目の名跡を譲り受けた。 | 法照寺(市川団蔵を参照、昭和3年(1928))の湯島時代のこの寺に埋葬されたか。3代目(2代目の実子)の墓もある。 |
人物名 | 没年 | 墓地所在地 | 略歴 | 補足 | 概観へのリンク |
塩井雨江 | 大正2年(1913) | [67]石雲山常仙寺 (和田1丁目68番11号、写真) |
詩人、国文学者。明治2年(1869)兵庫の生まれ。本名正男。東京帝国大学文科大学国文科卒。落合直文に師事。擬古文で名を知られた。日本女子大学校教授(1902)〜奈良女子高等師範学校教授(1910)のとき目白に住んだ。 | 常仙寺は慶長8年(1603)竜昌寺四世祥岩存吉和尚が江戸麹町に開創。塩井家の墓は明治36年(1903)に本人が建立した。明治41年(1908)現在の地に寺が移転(墓ごと)。本人が建立した墓なのでこの地に埋葬されただろう(1913、【写真】)。 | |
市川九女八 | 大正2年(1913) | [76]松栄山大法寺 (松ノ木3丁目33番19号、写真) |
歌舞伎の女役者。江戸神田の生まれ。本名は守住(もりずみ)けい。牛込、根岸などに住む。9代市川団十郎に入門し「女団十郎、女団洲」と呼ばれて人気を博し、特に所作事を得意とした。神田三崎座で座頭を勤める。 | 大法寺(松亭金水を参照)は明治42年(1909)杉並に移転しているから、杉並のこの寺に埋葬されたと考えてもよい【写真】が、台東区橋場の正徳院に葬るという記事もあり、確定し難い。 | |
望月金鳳 | 大正4年(1915) | [110]称光山華徳院長延寺 (松ノ木3丁目32番11号、写真) |
明治時代の日本画家。大阪の人。本名は平野学。幼名は数馬、別号を小蟹。円山派、後に四条派の西山芳園に学び、金鳳と号する。明治23年(1890)浅草に塾を開く。動物、特に狸の図が上手く“狸の金鳳”と渾名された。 | 称光山華徳院長延寺は下野国佐野に天台座主第3世慈覚大師が開創、慶長年間(1596-)浅草に移り大正2年(1913)現在の杉並に移転した。浅草の縁で長延寺が選ばれたのだろうが、死亡時期とお寺の移転時期と重なり、判断は難しい【写真】。 | |
臼井甕男 | 大正15年(1926) | [97]松苔山峯巌院西方寺 (梅里1丁目4番56号、写真) |
現在「レイキ」として知られている「手当て療法」を中心とした民間療法の一種「臼井霊気療法」の創始者。岐阜県の人。大正11年(1922)東京青山に臼井霊気療法学会を設立、大正14年(1925)中野に移転。 | 西方寺(山口和助を参照)は大正9年(1920)杉並に移転しているから、中野の近くの杉並のこの寺に(直接)埋葬されたと考えてよいだろう。 |
石雲山常仙寺(和田1丁目68番11号) | 松栄山大法寺(松ノ木3丁目33番19号) | 称光山華徳院長延寺(松ノ木3丁目32番11号) |
本人建立の【鹽井家之墓】。杉並の墓に直接埋葬された最初の近代人と思われる | 一般墓地とは別の場所で【市川九女八】の墓が特別扱いされている | 望月家の墓と並ぶ【望月金鳳】の墓(累世墓より大きい) |
人物名 | 没年 | 墓地所在地 | 略歴 | 補足 | 概観へのリンク |
志賀重メ | 昭和2年(1927) | [21]叡昌山宗源寺 (下高井戸4丁目2番3号、写真) |
地理学者。愛知岡崎生まれ。地理学の実地研究を志し、南洋各地を旅行。著作「日本風景論」の中で、近代登山を勧めている。宗源寺の檀家であり(この経緯は不詳)寺に「宗源寺開基碑」(写真)を建てた。 | 左記「開基碑」によれば、宗源寺は慶長年間(1596-)光伯院日善がこの地に開創(本当なら相当古い)、明治44年(1911)「高井堂」と呼ばれた修験道本覚院の不動堂(地名「高井戸」の起源とも)を移築した。しかし志賀重メの墓は岡崎にある。 | |
九条武子 | 昭和3年(1928) | 築地本願寺和田堀廟所 (永福1丁目8番1号、写真) |
歌人。西本願寺第21代法主大谷光尊の次女。「大正三美女」と言われ、男爵九条良致(貞明皇后の弟)と結婚。大正中頃から「築地御坊」に住み、慈善活動に献身した。京都女子専門学校(京都女子大の前身)設立も。代表歌集は「無憂華」。 | 左記活動の縁で(元々西本願寺派)、和田堀廟所(土生玄碩を参照、昭和9年(1934)に新しく建立した)の「築地御坊」に埋葬された【写真】。 | |
長谷川零余子 | 昭和3年(1928) | [111]正住山福相寺 (堀ノ内3丁目48番58号、写真) |
俳人。群馬県生まれ。旧姓は富田、本名は諧三、初号は翆村、別号に啄木亭。東京帝大薬学科卒。僚友井上唖々の感化で俳句に志し、内藤鳴雪に指導を受け、高浜虚子のすすめで「ホトトギス」編集者となる。のち俳誌「枯野」を創刊。著作に「近代俳句史論」。新宿の自宅で死去。 | 福相寺は天正17年(1589)一如院日重が下谷に開創、寛永年間(1624-)小石川に移転、そして昭和12年(1937)この地に移転してきた。したがって長谷川零余子は小石川時代のこの寺の墓に埋葬されたことになる。妻かな女(俳人)は昭和44年(1969)没だから、杉並のお寺になってからの埋葬【写真】。 | |
前田慧雲 | 昭和5年(1930) | 築地本願寺和田堀廟所 (永福1丁目8番1号、写真) |
浄土真宗本願寺派の学僧。伊勢桑名西福寺の覚了の長男。西本願寺西山教校に入り、内地留学生として比叡山で天台学を学ぶ。真宗本願寺派の学問所主事を務め、東洋大学(明治39年(1906))、龍谷大学(大正11年(1922))の学長を歴任した。 | 西本願寺派ですから、和田堀廟所(土生玄碩を参照、昭和9年(1934)に新しく建立した)の「築地御坊」に埋葬された。 | |
高山紀齊 | 昭和8年(1933) | [96]遍照山文殊院 (和泉4丁目18番17号、写真) |
明治時代の歯科。岡山藩出身。慶應義塾で英語を学んだ後、渡米して歯科医学を学ぶ。明治23年(1890)伊皿子に「高山歯科医学院」(東京歯科大学の前身)を創設。日本歯科医学会の初代会長。明治33年(1900)芝二本榎(現白金)に居を構えた。 | 文殊院は慶長5年(1600)興山寺勢誉師が駿府に開創、寛永4年(1627)浅草、元禄9年(1696)麻布白金台に移転、そして大正9年(1920)この地に移転した。紀齊が白金時代この寺に一族の墓を整備した縁で、移転先の杉並のこの寺の墓地に埋葬された【写真】。 | |
伊東己代治 | 昭和9年(1934) | 築地本願寺和田堀廟所 (永福1丁目8番1号、写真) |
政治家。長崎県生まれ。明治4年(1871)工部省試験に合格、伊藤博文の知遇を受け、累進して伊藤内閣の秘書官、書記官長、農商務相を歴任した。東京日日新聞社社長。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。 | 伊東家の宗派が浄土真宗なのでその縁で、和田堀廟所(土生玄碩を参照、昭和9年(1934)に新しく建立した)埋葬されたのだろうが、死亡時期と移転時期が重なっており、「築地御坊」に埋葬されたのか現在の地に直接埋葬されたのか、微妙である。 | |
高楠順次郎 | 昭和20年(1945) | 築地本願寺和田堀廟所 (永福1丁目8番1号、写真) |
仏教学者。現三原市で沢井家長男として生まれた。祖父譲りの篤信の真宗信徒。小学教員から始めたが、裕福な高楠家の養子になり、英国留学もでき、東大講師から教授、東洋大学学長を歴任。学士院会員となり文化勲章受章に至った。 | 真宗信徒なのでその縁で、現在の和田堀廟所に(土生玄碩を参照、昭和9年(1934)に新しく建立した)埋葬された。 |
人物名 | 没年 | 墓地所在地 | 略歴 | 補足 | 概観へのリンク |
筆谷等観 | 昭和25年(1950) | [3]宝珠山観泉寺 (今川2丁目16番1号、写真) |
日本画家。北海道生まれ。本名は儀三郎、別号に白夢楼・太虚堂。橋本雅邦、横山大観に師事する。院展同人となり、戦後は日展委員をつとめた。風景画とともに仏教や道教に画題を求めた作品も多い。 | 観泉寺には作品「阿難」(大正12年(1923)作)が保管されている。写真は【筆谷家之墓】。 | |
木村莊八 | 昭和33年(1958) | [80]万昌山長延寺 (和田1丁目44番24号、写真) |
洋画家。日本橋の牛肉店「いろは」の八男として生まれる。初め岸田劉生らと洋画を描くが、後半は昭和初期の風俗を多く描いた。永井荷風らの挿絵も。随筆も達筆で「東京繁盛記」は日本芸術院恩賜賞を受賞。 | 【墓の写真】。万昌山長延寺には今川直房、土肥黙翁、鈴木重胤、二宮桃亭らの墓もある。 | |
宮島清次郎 | 昭和38年(1963) | [99]天羅山善養院真盛寺 (梅里1丁目1番1号、写真) |
実業家。佐野商業銀行頭取小林庄太郎の二男。東京帝国大学卒業後、住友別子鉱業所に入社。日清紡社長・国策パルプ社長。晩年は日本工業倶楽部理事長(終身務める)、根津美術館理事長。武蔵高等学校の創設にも尽力した。 | 芝伊皿子の自宅で死去。遺書で「位階勲章を拒否」した。三井系ではないが、三井寺と呼ばれるこの寺に埋葬された。 | |
園部秀雄 | 昭和38年(1963) | [21]叡昌山宗源寺 (下高井戸4丁目2番3号、写真) |
女性武道家。仙台藩士の6女として生まれる。幼名たりた。直心影流佐竹茂雄の薙刀術に魅せられて入門。印可を得て秀雄を名乗る。武道家園部正利と結婚。成蹊高女などで薙刀を教えた。竹田宮、北白川宮、閑院宮妃殿下をはじめ各宮家にも教授。直心影流薙刀術第15代宗家。 | 成蹊高女の縁か、この寺に埋葬されている【写真】。 | |
十河信二 | 昭和56年(1981) | [90]法真山理性寺 (永福3丁目56番29号、写真) |
鉄道官僚。現新居浜市生まれ。東京帝国大学法科大学から鉄道院に入庁。満鉄理事、西条市長を経て、第4代国鉄総裁。東海道新幹線を推進し新幹線の父と呼ばれた。 | 国鉄中央鉄道病院で亡くなった。十河信二記念館は西条市にある。 | |
武見太郎 | 昭和58年(1983) | [1]日円山妙法寺 (堀ノ内3丁目48番3号、写真) |
京都で生まれ、すぐに東京に。慶応義塾大学医学部卒業後、内科に入るが教授とケンカ別れして、理化学研究所へ。昭和14年(1939)武見診療所開設。昭和35年(1960)日本医師会会長に。厚生省とのやり合いで「ケンカ太郎」の異名をとった。昭和50年(1975)には世界医師会会長。 | 中学時代、腎臓結核療養中に叔父武見日恕(のち第29世上人)の影響もあって「法華経」に親しみ、大学時代は教授柴田一能の日蓮聖人讃迎会に入った。日恕上人の縁でこの寺に埋葬された。 |
人物名 | 没年 | 墓地所在地 | 略歴 | 補足 | 概観へのリンク |
松尾和子 | 平成4年(1992) | [114]普明山西照寺 (高円寺南2丁目29番3号、写真) |
歌手。東京蒲田の生まれ、箱根で育つ。赤坂のナイトクラブで認められ「東京ナイトクラブ」でデビュー。「誰よりも君を愛す」が大ヒットし、第2回レコード大賞を受賞。「ムード歌謡の女王」と称された。 | 階段からの転落で死亡。墓はこんな感じ。 | |
三波春夫 | 平成13年(2001) | [1]日円山妙法寺 (堀ノ内3丁目48番3号、写真) |
演歌歌手。新潟長岡市生まれ。本名は北詰文司。魚河岸奉公の後、浪曲を学び浪曲家となる。昭和32年(1957)「チャンチキおけさ」で歌謡界デビュー。代表作は「東京五輪音頭」。 | 墓石に「昭和43年北詰文司建立」とあるから、生前に先祖墓を改葬した模様(墓誌には戒名が多く刻まれている)。墓はこんな感じ。 | |
吉原幸子 | 平成14年(2002) | [77]嶺玉山龍泉寺 (下高井戸2丁目21番2号、写真) |
詩人。東京四谷生まれ。東大仏文科卒業後、劇団四季に入団。昭和37年(1962)離婚後、詩人となる。「オンディーヌ」「昼顔」で萩原朔太郎賞受賞。吉原信之(三陽商会創業者)の妹。 | 龍泉寺は、慶長8年(1603)雄峰山全勝寺2世の晋庵瑞迪和尚が江戸麹町で開創したと伝えられる。曹洞宗。寛永年間(1624-)四ッ谷に移転、明治42年(1909)この地に移転した。【墓】 | |
貴ノ花利彰 | 平成17年(2005) | [31]月光山天桂寺 (成田4丁目17番14号、写真) |
大相撲力士。青森弘前市生まれ。本名は花田満。45代横綱若乃花の弟。水泳も得意だったが、昭和40年(1965)初土俵。最高位は大関。引退後、鳴戸、藤島(藤島部屋)を経て、二子山(二子山部屋)。子供に、66代横綱若乃花、65代横綱貴乃花がいる。 | 墓はこんな感じ。 |