(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
江戸時代の京都−都名所図会
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葵祭(賀茂競馬) | 朝日山 | 愛宕山 | 阿弥陀ヶ峰 | 嵐山 | 有栖川 | 粟田神社 | 粟田山 | 安国寺塔 | 安養寺 | 安楽寿院 | |
石川丈山墓 | 一条戻橋 | 稲荷山 | 今宮神社 | 石座神社 | 岩屋山 | う | 宇治 | 宇治神社 | 歌の中山 | 瓜生山 | 雲林院 |
大堰川 | 大石内蔵助蟄居地 | 大原 | 巨椋池 | 小倉山 | 愛宕念仏寺 | 音無の滝 | 音羽の滝 |
華頂山 | 鞍馬街道の地蔵堂 | 上賀茂神社 | 上御霊神社 | 唐櫃越 | 元慶寺 | |||
祇園祭(山鉾巡行) | 北大路通 | 北白川山 | 北野天満宮 | 衣笠山 | 清水寺 | 清水山 | 金閣寺 | 銀閣寺 |
苦集滅道 | 鞍馬寺 | け | 源光庵 | 建仁寺 | ||||
光悦寺 | 興聖寺 | 高台寺山 | 革堂 | 五条大橋 | 小関越 | 古知谷阿弥陀寺 | こぬか薬師 | 金戒光明寺 |
西行庵 | 西芳寺 | 左女牛井 | 三条大橋 | 三千院 | |||||
四条大橋 | 詩仙堂 | 地蔵院(竹の寺) | 七条大橋 | 島原 | 下御霊神社 | 相国寺 | 浄住寺 | 清浄華院 | 常照寺 |
少将井 | 正伝寺 | 正法寺 | 上品蓮台寺 | 勝林院 | 正林寺 | 浄蓮華院 | 神泉苑 | 真如堂 | |
清閑寺 | 誓願寺 | 赤山禅院 | 泉涌寺 | 千本ゑんま堂 | そ | 双林寺 |
江戸時代の葵祭(賀茂競馬)(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
「葵祭」は弘仁10年(819)から国の公式行事として行われてきた (図の文字を読むと)江戸時代も葵祭の「賀茂競馬」(くらべうま)は(現在と同じく)「五月五日」に上賀茂神社で行われた 「馬場」も(図の下の方、現在と同じく)「一の鳥居」の脇にある (現在と違うのは)「一の鳥居」の脇の「広場」で宴を張ることができたようです |
江戸時代の嵐山(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
「渡月橋」の上流が「大堰川」(図右端に「大井川」)と描かれている 「嵐山」の山頂近くに「嵐山城跡」が 、その左手前の山の中腹に「法輪寺」(近くに「明星井」「楼門」も)描かれている (図右上端に)「大悲閣」、(図左下隅に)「鹿王院」「有栖川」が描かれている 今よりも大堰川・桂川の流れは急 |
江戸時代の宇治(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
(説明によれば)「朝日山」の山腹には「菟道尊陵」「朝日観音」があると書かれている 「興聖寺」(図左上)は大きい 「宇治神社二座」は(江戸時代は分社されておらず)離宮八幡と呼ばれていた(図左端) 「恵心院」(左の図の中央)、「宇治橋」(左下隅)、「塔ノ島」(図右隅に「十三重塔」、図では「浮塔」)は今も残る |
江戸時代の一条戻橋(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
「一条戻橋」は「堀川」に架かる橋で、現在は堀川通に架かり、橋の下には「堀川」しか見えない にも拘わらず、左の図では橋の下に2つの川が見える もう1つの川はどこか。昔の地図を見ると「小川」であることがわかる |
江戸時代の大原(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
(江戸時代だから)「三千院」の名は見えない、(図の下の方の参道に並ぶ)「梶井宮旧蹟」「極楽院」「法華堂」が(現在の)「三千院」にあたる (図右上から中央へ)「音無滝」「来迎院」「浄蓮華院」(図では「融通寺」)が並ぶ(途中の「小野山」「大乗院」は不明) (図の下の方に)「呂川」「律川」は当然描かれている (図左に)「勝林院」が大きく描かれている(図では「阿弥陀堂」) 現在の配置と大きく変わらない |
江戸時代の祇園祭(山鉾巡行)(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
「祇園会の祭式」は明応9年(1500)に復活して以来、今日まで続く (江戸時代は)「五月一日」から始められた。(前の祭)巡行は「七日四条通より京極を南へ、松原を西へ引き渡す」、(後の祭)巡行は「十四日三条通を東、京極を南へ、四条を西へ引き渡す」とあり、現在とは異なるルートで行われていた 山鉾の曳き方・見物の仕方は概ね同じですが(もう一つ現在と違うのは)「山鉾の屋根の上」に人が乗らないところ |
江戸時代のこぬか薬師(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
「都名所図会」によれば、美濃で創建され、織田信長の頃、現在の地(釜座通二条上ル)に移され、「それより都鄙の貴賤数多信仰し、霊験ある」とある 現在の「薬師堂」の他に、「庚申堂」「飛梅天神」などもあり、参詣者が多く見られる 少なくとも現在よりはよく知られていたようです |
江戸時代の島原(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
花街は寛永18年(1641)島原に移転してきた 出入口の「大門」(右の図の左下)は現在と違って“それ程大きくない” 大門の手前の「出口の柳」(右の図の中央下)は今も(何代目かが)残っている 江戸時代は賑わっている様が見て取れる |
江戸時代の神泉苑(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
平安京創都と同時に造営された「神泉苑」(三条一坊九〜十六町)は何回か荒廃を経て、元和(1615-)の頃「1/8の規模に」再興された(三条一坊十五町) お陰で、北の方に(図左上)徳川家康の二条城が見える 現在は概ね江戸時代を修復した形で残っているが、「多宝塔」(図右下)は天明の大火(1788年)で焼失し残っていない |
江戸時代の鷹峯(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
「鷹峯街道」(図下の方、左から右下へ斜めに進む道)に沿って、「光悦寺」(左の図下)、「源光庵」(右の図中央)、「常照寺」(図右隅、参詣者が見られる)が現在と同じように並ぶ 「鷹峯街道」の「源光庵」前から「下ル道」が千本通にあたる。この道も現在と変わらない 「光悦寺」の南にある「題目堂」(図左下隅、今は「圓成寺」)は現在は「鷹峯街道」の北側にある 図左上の「岩屋山」はこの方角だが、こんなに近くには見えない |
江戸時代の葉室(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
(今と同じように、図の上、右から)「月読神社」「西芳寺」「地蔵院」「唐櫃越」「葉室山浄住寺」が並ぶ 図右下隅には「桂川」が流れる 「桂川」の西岸には、「京極殿別荘」(鎌倉時代の内大臣・藤原家良)、「徳大寺村」(現在の西京区桂徳大寺町あたり)、「久遠寺」(図左端、現在は「西山別院」)などが描かれている 葉室には(意外にも昔から)いろいろな施設があった |
江戸時代の東京極大路(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
現在の寺町通に相当する(図には「京極道」とある)。江戸時代から「清浄華院」「蘆山寺」が並び、少し下って「下御霊神社」「革堂」が並ぶ。これらは皆、洛の外側。もう外側の方が賑やかだったかもしれない。通りの縁を流れているのはの「中川」 |
江戸時代の柳の井(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
(図の説明によれば、西洞院三条の南にある)「柳の水」は(現在と違って)誰でも飲めたようで、 図左上に描かれている空也堂では「柳の水」で茶を振舞っていた、とある |
江戸時代の山科(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
背後の「音羽山」が目立つ。「牛尾山」「音羽滝」も描かれている (江戸時代)目立つのは「小山西本願寺旧地」(音羽山麓)、「東御坊」「西御坊」(右の図、現在の東西「山科別院」) 「花山」には「僧正遍昭旧地」(左の図右中、現在の元慶寺)、図右隅には(江戸時代になっていたので)「大石内蔵助蟄居の旧地」、左端には「小関越」、左下の方に「苦集滅道」(くづめぢ、図では「しる谷」、多くの人が歩いている)が描かれている 山科は(草が生い茂り)淋しい |