(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
京都市内を流れる川
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平安遷都以前 | 平安遷都以降(東堀川、西堀川、七瀬川、耳敏川) | 鎌倉時代以降(小川、西洞院川、今出川、中川) | |
近代・現代(高瀬川、西高瀬川) | 同左・旧平安京外を散策すると遭遇する川(紙屋川、天神川、御室川、清滝川、白川、疏水、その他) |
鎌倉時代以降の「京都市内を流れる川」の推定図 下の写真=記号「中」=堀川に架かる「中立売橋」の後継堀川第一橋 (江戸時代にはこの位置に「中立売橋」が架橋されていた) | ||
右図の記号 「794」=一条戻橋 「百」=百々橋 「今」=今出川橋 「柳」=柳の井 |
小川に架かる「百々橋」跡 | 小川に架かる「今出川橋」跡 | 西洞院川から湧出する「柳の井」 |
応仁の乱最大の激戦地になったのが百々橋(厳密には京外)。橋幅≒4m、橋長≒7.5mとも | みつば幼稚園前に「小川 今出川橋」の石碑が建っている | 今なお柳の井の水を使って、黒染めをしている |
「相国寺」の中を流れるのは今出川の名残か | 「蘆山寺」前を流れる中川 | 紫式部の「中川の家」候補地の説明板 |
相国寺は広いから、どれが今出川の名残か、判明し難い。境内のあちこち水が流れている | 「都名所図会」(安永9年(1780)刊行)蘆山寺の前に“川”が描かれている | 説明板は梨木神社にある。中川は「梨木神社と蘆山寺の間」を流れていたか |
現在の「河川法」に基づく「京都市河川図」 赤四角で「平安京」を示した。 「平安京内」を流れるのは「堀川、天神川、西高瀬川」 の3本のみ。 右図の記号 「794」=一条戻橋 「三」=三条橋 (右図は「京都市情報館」から引用させていただいた) |
高瀬川(厳密には「旧平安京外」ですが) | 西高瀬川 | ||
今は、史蹟「高瀬川一之船入」(木屋町)で昔を偲べるようになっている | 運河としての高瀬川はこんな感じ。写真は(鴨川に架かる)団栗橋の南辺り | クランクして南下する辺り(佐井西通花屋町上ル)、護岸工事がしっかり | 東下してきて西土居通を渡る辺りに「三条橋」があった(今は暗渠化されている) |
紙屋川 | 天神川 | ||
北野天満宮の御土居近くを流れる | 「今出川通」を越えて西土居通と並行して南下している辺り(写真は「妙心寺道」を越える辺り) | この地点(西大路通太子道)で西へ曲げ、向きを変える | 現葛野中通に沿って南下する(しっかり護岸工事がなされていて)味わいは無い |
御室川 | 清滝川 | ||
太子道天神川辺り。思ったより多い水量で流れる、護岸も草が付いている | 御池通天神川辺り。北東方向から「天神川」、北から「御室川」が合流する | 「嵯峨清滝」から愛宕山表参道に向かう「渡猿橋」、その橋から見る清滝川 | 清滝川に沿う「錦雲渓・金鈴峡」を歩くとき、写真の「潜沈橋(小泉橋)」を渡る |
「白川」(青線)と「琵琶湖疏水」(橙線)は近接している 「琵琶湖疏水」は(白川との区分をはっきりさせるためだけだから) (ここでは)「岡崎疏水・哲学の道・北白川疏水」だけを取り上げた (表面上、岡崎公園の南縁で重なって見えますが、地中で水の流れは分離しています) 川(または水の流れ)を見て、両者の区別ができるようになるのが 京都通の第1歩です (先頭へ) |
白川 | 疏水 | ||
「浄土寺」辺り(左京区浄土寺真如町)。水量も多い | 「祇園」の中を流れる白川。場所柄「疏水」と間違える人が多い | 「北白川疏水」、この辺りも水は「南から北へ」流れている(変な感じです) | 「哲学の道」(若王子橋の近く)。白川と疏水の見分けは中々難しい。 |
西羽束師川 | 有栖川 | 山科川 | 音羽川 |
「桂離宮」あたりから久我(写真は久我近くの西羽束師川)を経て、桂川に注ぐ | 大覚寺あたりから嵐電「有栖川」付近(写真:嵐電の線路が見える)を経て梅津で桂川に注ぐ | 山科あたりの「中心的な川」、色々な支流を集めて、桃山で宇治川に注ぐ。写真は三角点「山科川」(山科区西野離宮町) | 比叡山から「修学院離宮」を経て、松ヶ崎で高野川に注ぐ。写真は「比叡山を望む修学院道」(護岸工事が大きい) |