58.大弐三位

藤原賢子 上の句順 下の句順 (INDEX)


ありまやま  いなのささはら  かせふけは  いてそよひとを  わすれやはする
ありま山 いなの篠原 風吹ば いでそよ人を わすれやはする
有馬山 猪名の篠原 風吹ば いでそよ人を 忘れやはする

■友札 有明の
■親族歌人  紫式部の子

■歌について
男の覚束ない心を責めて、葉と葉のすれ合う音に掛けて、私の心はそよいでいる、と詠った歌。
■出典
後拾遺集恋三
■作者略歴
生没年未詳。越後守藤原宣孝と紫式部との間の長女。太宰大弐高階成章の妻。後一条院の乳母に召され、三位の官を賜った。「狭衣物語」の著者でもある。
【補】
18歳の頃(寛仁元年(1017)か)紫式部と共に、皇太后彰子(後の上東門院)の女房として出仕した。「越後の弁」(藤原宣孝が当時「弁官」であったらしい)と呼ばれた。当初は小式部内侍とも交際があり、後年周防内侍とも仕事のお付き合いがあった。
宮中では藤原頼宗(藤原道長の次男)藤原定頼ともお付き合いし、母・紫式部と違って「男性遍歴」は多かったようです。
結局は藤原兼隆(道長の兄道兼の次男)と結婚し子(娘)を設けた(万寿2年(1025))。その頃、後の後冷泉も生まれ、後冷泉の乳母になった(上の註(島津忠夫)の後一条とあるのは間違い)。
その半面、歌の能力は母・紫式部を凌駕している。
作家田中阿里子は「この歌は藤原頼宗とのやりとり」と主張されておられます。
さらに現在では「狭衣物語の著者」は「源頼国の娘(六条斎院宣旨)」であって大弐三位ではないとの説が有力。
乳母の期間が長引き、藤原兼隆との関係も切れてしまった。その後、高階成章と再婚した。後冷泉が即位した(寛徳2年(1045))ことで典侍従三位になった(社会的には母・紫式部より出世した)。天喜2年(1054)高階成章が太宰大弐になったことで大弐三位と呼ばれるようになった。
永保2年(1082)老衰で亡くなったとされ、生没年は長保4年(1002)〜永保2年(1082)と推定できる。満で81歳まで生きたことになる。