67.周防内侍
平仲子 上の句順 下の句順
(INDEX)
はるのよの |
ゆめはかりなる |
たまくらに |
かひなくたたむ |
なこそをしけれ |
春のよの |
夢ばかりなる |
手枕に |
かひなくたゝむ |
名こそ惜しけれ |
春の夜の |
夢ばかりなる |
手枕に |
甲斐なく立ゝむ |
名こそ惜しけれ |
- ■歌について
- 二条院(建物の名前)で如月の月を見ながら物語をしている折、大納言藤原忠家が手枕を差し出したときに、断りの歌として詠った歌。
- ■出典
- 千載集雑上
- ■作者略歴
- 生没年未詳(1065の頃)。周防守平継仲の娘。後冷泉院に女房として仕えた。歌の評価は高く、後に鴨長明・西行らも引用している。
「周防内侍」については「まとまった史料」がなく不明点が多いが、分かっていることを整理してみました。
- 長暦元年(1037)頃生まれた。「平 仲子(たいらの ちゅうし)」とはっきり名前がわかっている。
- 父は従五位上周防守「平棟仲」(上の註(島津忠夫)と異なる)。「和歌六人党」の一人。
- 母は五位下加賀守源正職の娘。70後冷泉朝で「小馬内侍」と呼ばれた律令女官(「馬内侍」という66一条朝の掌侍で和歌の上手い人がいて、それに次ぐ掌侍と称されたか)。
- 和歌の上手さは両親譲り。
- 「母の縁」で70後冷泉の女房(天皇の私設雇用者)として出仕した(時期不明)。(多分)仕事ぶりが認められて母・小馬内侍の致仕後、(多分、71後三条のとき)掌侍に任官された。
- 70後冷泉崩御(治暦4年(1068))に伴い(32歳で)致仕したが、71後三条に強く「再出仕」を求められた、ことがわかっている。
- その後、72白河、73堀河にも(通算で40年以上)仕え、正五位下まで与えられた。
- 気配りに長け、機智に富み、「天皇の傍で」諸事万端事務処理能力抜群の人であったのだろう。天皇のお手がついたという話は見当たらない。
- 73堀河崩御(嘉承2年(1107)7月19日)に伴い(71歳で)致仕し、生涯未婚のまま出家。天永元年(1110)頃、亡くなった。
- 「治暦4年(1068)」(70後冷泉を致仕した)頃、亡き母が住んでいた家を人手に渡すにあたり、家の柱に「住みわびて 我さへ軒の 忍草 しのぶかたがた しげき宿かな」(金葉和歌集)を書き付けた。
- この家は「左京二条二坊七町」(現在の堀川通竹屋町上ル)のあたり、建久年間(1190-)まで(荒廃したまま)残っていたそうで、西行も見に行ったらしい。
- 上の和歌(そんな恥ずかしいことはしたくないわ)が詠まれたのは「承暦4年(1080)」(72白河朝、44歳)頃。年齢から考えて「和歌遊び」でしょう。
- 当然、藤原忠家(藤原道長の孫、御子左家)は「契ありて 春の夜ふかき 手枕を いかがかひなき 夢になすべき」(折角出した手枕を、ただの春の夢にしてしまうのは、もったいないじゃないですか)とすぐに和歌を返した。
- この「やりとり」は江戸時代、土佐浄瑠璃の作品『周防内侍美人桜』に取り上げられた。
- 「寛治7年(1093)」(73堀河朝、57歳)、郁芳門院の「菖蒲根合」(菖蒲の根の長さと、それに添えた歌を競い合う遊び)で「恋わびて ながむる空の うき雲や 我したもえの 煙なるらん」(金葉和歌集)と詠った。
- 「天仁元年(1108)」致仕した後、病気で広隆寺に籠っていたとき「かくしつつ 夕べの雲と なりもせば あはれかけても 誰か忍ばむ」(新古今和歌集)と詠った。