修学院山
(INDEX)
独断評価 | 発見難易度 | 登頂体力度 | 頂上眺望度 | 山行愉悦度 | 総合評価 |
5点満点 | ★★★★ | ★★★ | ★★★ | ★★★★ | 3.2 |
- 山頂の特定(地図)
- 音羽川に沿って東へ進み、雲母坂(きららざか)を登る。かなり坂を詰めると左手に『修学院離宮』の柵が出てくる。この辺はなだらかになっており『修学院離宮』の最高部で(最東にある)、山頂と見做せる。
- 山頂を示す印になるようなものはない。下から見上げた山頂の方角と、登ってみての高さ感で判断するしかない。
- 西側は開けていて多少の眺望は得られる。修学院横山、松ヶ崎の東山・西山(妙法の山)などが手の届くところに見える。
- この山頂は「修学院雲母坂城」であったらしい。
- 京都市遺跡地図台帳には「修学院の東方の山中(標高340m)に築かれた小規模な山城」と記載されている。
- 確かに城跡らしい雰囲気はあるが、明確な石垣などは見つからない。
- 山頂自体は『修学院離宮』の柵近くにある。地形図から見て標高は340m(数値地図でも340m)である。
- 種本は標高点(280m)がありそこが山頂のような紛らわしい書き方をしているが、地形図には標高点(264m)しかなく、かつその地点は『修学院離宮』の本五号門近くの登山ルートの途上にあたる。
- 登頂記録
- 初登頂は、H15-7-20。山頂探索を目的に登った。
- 「登山ルート」に示すとおり登った。その後「修学院離宮」の柵に沿って西側に下りて行き、本五号門(標高点(264m)近傍)・本四号門(赤山近傍)を経て、赤山禅院へ下りた。道は良く整備されている。
- 修学院山(しゅうがくいん)
- 一言で言えば広大な修学院離宮の背後にある高い山。
- 『修学院離宮』あたりからは立派な三角錐に見える。
- 地元の人は「修学院山」とは呼ばないが、『修学院離宮』あたりを歩けば誰でもが「修学院山」だと感じる。
- 昔は「しゅがくいん」と読むことも多かったらしい。
- 「修学院赤山」「修学院梅谷」「修学院音羽谷」の境にある。
- 修学院離宮
- 明暦元年(1655)から万治2年(1659)まで5年をかけて徳川幕府が後水尾上皇のために造営した離宮。
- 上・中・下の3つの御茶屋を中心にした3つの庭園(離宮)からなる(14万坪)。上御茶屋の隣雲亭から見る雄大な眺めが素晴らしい。一二三石(ひふみ)・霞棚も有名。
- 宮内庁への拝観申請が必要だが、拝観をお薦めする。住所は「左京区修学院藪添」。
- 近くの仏閣神社
- 林丘寺
- 延宝8年(1680)後水尾上皇の皇女光子(てるこ)内親王がここ朱宮御所(あけのみや)を寺として開山し尼門跡となったが、明治17年(1884)にその大部分を宮内庁に返還した。
- その残った部分が、現在の修学院「中の離宮」と林丘寺(東側部分)にあたる。臨済宗天竜寺派。非公開。
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修学院離宮の下離宮「御幸門」 |
音羽川沿いにある「林丘寺 旧表総門」 |
「同 旧表総門」を修学院離宮内から見る |
- 雍州府志での記述
- 修学院山
- 叡山の南に在る。古え、修学寺がこの麓に在った。修学寺は近世(江戸時代に)後水尾院の行宮(修学院と号す)となった。
- 東山国有林風致計画での記述
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音羽川から見る修学院山 |
修学院山から見る修学院横山方面の眺望 |
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山頂一帯(最近「表札」ができた) |
登り口にある雲母坂の碑 |