瓜生山
(INDEX)
独断評価
発見難易度
登頂体力度
頂上眺望度
山行愉悦度
総合評価
5点満点
★★
★★★★
★★★
★★★★★
3.8
山頂の特定(
地図
)
「瓜生山頂」の案内板が立てられている開けた台地
が山頂。
開けているのは、かつてこの山頂に「山城」があったからである。
京都市遺跡地図台帳には「
北白川城:瓜生山城・勝軍地蔵山城
ともよぶ。大永7年(1527)細川高国が築城。曲輪や平地など城跡を示す遺構等が残存し、トリデ山・デマル・ヤカタ山など城にちなむ地名が残る」と記載されている。
築城時期は永正17年(1520)という説もある。
山頂に標高点(301m)がある。数値地図には300mとある。
山頂の社殿(狸谷不動尊奥の院)の裏に祠(石室)があり(ここに
昔『勝軍地蔵』が置かれていた
)、若干盛り上がっている。人工物ではあるがこの地点は高くなっている。
登頂記録
初登頂は、東山トレイルを歩いて、H06-12-10。このときは「登山ルート」どおり、
大山祇神社
を経て登った。途中「白幽子厳居之跡」の標識も目立つ。このルートは
「北白川史跡と自然の道」として整備されている
。山頂近くで、狸谷不動尊から続く三十六童子に出会う。
「
白幽子厳居之跡
」の標識を過ぎて、狸谷不動尊から続く三十六童子に出会う前に、南へ下りる道がある。この分岐標識には南へは進めないように記されている(×印が書かれている)が、この道を降りていくと、茶山に出られる。東山三十六峰を繋ぐハイキング道に使える。
山頂から狸谷不動尊へ下りるルートもあり、この道を登ってくるハイカーも多い。
詩仙堂
前を通って狸谷不動尊へ向かい、狸谷不動院本堂の脇から「奥の院への道」へ進めば、三十六童子を辿って瓜生山頂へ出ることもできる。
瓜生山
一言で言えば
白川通から一乗寺下り松の東奥に見える恰幅のいい小高い山
。
白川通から東を見て最も目立つ山
なのですぐわかる。
開けた山頂から
大文字山・比叡山が見える
。市街は木々の間にちらほら見える程度。
延文6年(1361)山頂に戦勝祈願の地蔵堂が建てられたため、勝軍地蔵山と呼ばれたが、
宝暦12年(1762)
『勝軍地蔵』は足場の良い北白川の山(9番北白川山)に移された。
この移設により、瓜生山・北白川山・『勝軍地蔵』の関係が混乱している
。
読みも難しい。町名の「瓜生山町」は「うりゅうざんちょう」、京都芸術大学の学園祭の「瓜生山祭」は「うりゅうやまさい」。
近くに「北白川瓜生山町」があって、茶山は「北白川瓜生山町」にあるが、瓜生山自体は「北白川清沢口町」にある。
江戸時代の
瓜生山
(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベースから)
左端
詩仙堂
(から南東)
の右奥に「
瓜生山
」が描かれている。
(上述のとおり)
宝暦12年(1762)に勝軍地蔵が移設されたので「
地蔵堂旧地
」と併記されている
その右のピークに「
城跡
(図では「城址」)
」があり、細川高国の跡も描かれている
近くの仏閣神社
狸谷不動尊
(たぬきだに)
詩仙堂の前を850mほど上った山間の寺院が狸谷不動院で、その本尊が狸谷不動明王(不動尊)。
災難除けの不動として知られる。
雍州府志での記述
白川山
白川村東北の山はすべて白川山と謂う。その内に、鐺山(こじりやま)、情延山の名が有る。
将軍山もその一峯でその山頂に『勝軍地蔵』堂がある。山中に「白川石」を産する
。この山の東南に山中越えがある。
(注)記述内容から、雍州府志の白川山=現・瓜生山である。
理由1:江戸時代初期に『勝軍地蔵』堂があったのは、現・瓜生山。
理由2:白川石を産するのは、現・瓜生山である。
さらに築城の記載がある。
(注)しかしこの記述は中尾城のこと(
如意ヶ岳
を参照)で、記述誤りである。
東山国有林風致計画での記述
白川山
白川の東北の山を総称する。「白川石」を産する。(注:「雍州府志での記述」に同じ)
將軍山
白川山の一峯。勝軍地蔵がある。絶頂には古の城郭の跡が存する。
(注)昭和になってから書かれたわりには調査不足。「雍州府志」を丸写ししたとしか考えられない。
比定
白川山/将軍山
上述のとおり、この2つの山は
両方とも「瓜生山」に比定するのが適切
。
別名(他)
鐺山
白川の東北の山の総称であったため、「雍州府志」にあるように、鐺山(こじりやま)、情延山、さらに将軍地蔵山などの別名も多い。
白川通一乗寺下り松から見る瓜生山
瓜生山頂
東山トレイルからの山道にある案内板
狸谷不動院本堂脇にある最初の三十六童子