(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
六孫王
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「六孫王」って誰。「六孫王神社」に名を残している。私自身、知らなかったので、調べた。
六孫王
【広辞苑第六版】によれば「清和天皇の第6皇子貞純親王の王子だからいう(→)源経基の異称(ろくそんのう)」とある。
さらに
源経基
は「平安中期の貴族・武人。清和天皇の第6皇子貞純親王の長子。はじめ経基王。
六孫王
と称されたが、
源姓を賜り
清和源氏の祖
となる。和歌をよくした。平将門の反乱を通報、のち小野好古に従って藤原純友を滅ぼした。( 〜961)」とある。
清和天皇から見れば「
六
番目の子供の子(=
孫
)で、生まれた時は
王
」。
清和天皇の「六番目の孫」かどうかは
(不勉強につき)
わからない。
もう少し
(野次馬的に)
調べてみると
生年は不詳。没年(応和元年(961))から推定して、延喜17年(917)生まれとの説も
(不確か)
。
班田が行われなくなり、荘園がますます増えていく時代、武士団が必要になり始めた時代の人物。
清和源氏は源氏の中でも最も栄えた。
義家
、
頼朝
もこの家系。
足利尊氏
もこの流れになるとも。
「将門の乱」の対応について正確に言えば
経基が武蔵介として関東に赴任した折、地元郡司と揉めた。調停に入った将門の裁定に不満を持ち、翌年帰洛したとき「将門の動きは反乱です」と報告した
(公平だったか)
。
そして将門追討軍に参加した
(というのが事実、その時の大将は
藤原忠文
)
。
平安京では「どこに住んでいた」か
左京八条一坊四町
(であることが知られている)
。
その邸宅は、「八条第」、「
六の宮
」
(第六皇子貞純親王(経基の父)=六の宮からの邸宅だったと思われる)
と呼ばれていた。または「
小八条
」
(と呼ばれることもあったか)
。
左京八条一坊四町(源経基「六の宮」)
現在の左京八条一坊四町あたり
広大な「西八条第」は平清盛の屋敷なので、源経基の頃はまだ無かった(多分
野原
)
「坊城小路」と「朱雀大路」の間に相当する
(池は「坊城小路」と「壬生大路」の間=五町にある)
現在の六孫王神社の
本殿
は「八条一坊四町」=「坊城小路と朱雀大路」の間にある(「南区八条町」)
六孫王神社
(南区壬生通八条西入ル)
没(応和元年(961))後の応和3年(963)、息子の満仲が
(遺言どおり)
邸内の池の脇
(上図の池、
東側の左京八条一坊五町
の一部)
に墓を造り、社殿も創建した。これが「六孫王神社」の始まり。
この地は、摂津源氏に伝領され、
源頼政
のとき平清盛に譲られ、広大な
西八条第
(
左京八条一坊五・六町、十一〜十四町
)
に組み込まれた。
墓・社殿はそのまま残されたが、鎌倉時代以降
(清盛亡き後)
の戦乱で社殿は失われたらしい。
江戸時代になって、清和源氏の宗家を自認する徳川家の支援を受け、
宝永3年(1706)
新社殿が完成した
(元禄14年(1701)から始まり6年後に完成、これが
現存
する)
。
祭神は「六孫王大神」
(
六孫王は神になった、贈正一位
、生前は正四位)
。
現在の六孫王神社の
池
現在の六孫王神社
池は「八条一坊五町」=「壬生大路と坊城小路」の間にあった。ここに「墓と社殿」を造った
現在の六孫王神社は概ね「八条一坊五町」=「壬生大路と坊城小路」の間にある
今昔物語集
(
白河院政
の天仁3年(1110)〜天治元年(1124)頃刊行か)
に出てくる「
六の宮
姫君」(巻十九 第五話)
第五話「六宮姫君夫出家話」に関して、芥川龍之介が
(龍之介風)
現代語訳「六の宮の姫君」を著している。
六ノ宮
と云う所に、古い宮様の子で「兵部大輔」と云う人がいた。
(中略)
50歳を過ぎて、娘が一人。齢は10歳を少し超え
美麗
。
(中略)
やがて父
(兵部大輔)
も母も亡くなり
(一人になる。この後だいぶ略して)
六ノ宮に行って見ると、築地も崩れて、四足門の跡形も無くなっている。
(以下略)
「六の宮」は明らかに
源経基邸
を擬している
(古い宮様は「第六皇子貞純親王」)
。
しかし
(古い宮様の子)
源経基は「兵部大輔」になっていない。
伝領した摂津源氏は地方官で下向することが多かったので、早い時期に「廃墟(野原)」になったか。
「六の宮」設定以降の話は、他の話と混交したか。