(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
平安時代の天皇の陵
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50桓武(柏原陵) | 51平城(楊梅陵) | 52嵯峨(嵯峨山上陵) |
伏見区桃山町永井久太郎 | 奈良県奈良市佐紀町 | 右京区北嵯峨朝原山町 |
「伏見柏原」に葬られ、その後改葬されたなど、諸説多い。豊臣秀吉が伏見城を築いたりで所在不明になった。明治13年現在の陵を治定した | 平城京に都を戻そうとした訳だから、奈良に葬られるのは本望だったか。でもこの陵(5世紀築造の前方後円墳)の治定は相当怪しい | 後院嵯峨院(大覚寺)を見下ろせる所に薄葬するよう遺命した。後に所在不明に。江戸末期(山陵志)に山上が陵所と記録された |
53淳和(大原野西嶺上陵) | 54仁明(深草陵) | 55文徳(写真は天皇ノ社古墳) |
西京区大原野南春日町 | 伏見区深草東伊達町 | (宮内庁治定の田邑陵は)右京区太秦三尾町 |
淳和の遺詔で、大原野西山嶺上に散骨された。この嶺が「088小塩山」(642m)山頂にあたる。幕末になって、山陵に改修された | 深草に葬られたことで深草院とも呼ばれた。宮内庁の治定は正しくなくて本当の陵は「深草瓦町の善福寺周辺」らしい(写真は宮内庁治定陵) | 写真は「西京区御陵塚ノ越町」の前方後円墳。(宮内庁は田邑陵に治定だが)古くから「文徳の御陵」と信じられ御陵(ごりょう)さんと呼ばれている |
56清和(水尾山陵) | 57陽成(神樂岡東陵) | 58光孝(後田邑陵) |
右京区嵯峨水尾清和(町名も「清和」と付けられた) | 左京区浄土寺真如町 | 右京区宇多野馬場町 |
清和院を後院とした清和は水尾を愛した故に、本人の希望で水尾の山あいに葬られた。陵は少し遠いので、写真は「山陵への道標」(鳥居本にある) | 真如堂総門前にある。冷泉院で崩御し、神楽岡の東に葬られた。その後、所在不明になるが、幕末この地を陵所(八角丘)にした | 当初「小松山陵」に葬られたことから、没後小松院とも呼ばれた。その後、所在不明になり、明治22年になってここに治定した。正しいかどうか |
59宇多(大内山陵) | 60醍醐(後山科陵) | 61朱雀(醍醐陵) |
右京区鳴滝宇多野谷 | 伏見区醍醐古道町 | 伏見区醍醐御陵東裏町 |
仁和寺から1kmくらい「山に入った」ところで、火葬・散骨された。場所は不明のまま幕末にその地を陵に治定した | 天智天皇山科陵とは、そこそこ離れている。長い間、醍醐寺が管理していた。所在は正しい | 父・醍醐の後山科陵の近くに葬られた。醍醐天皇の子供の方が「醍醐陵」になった |
62村上(村上陵) | 63冷泉(櫻本陵) | 64円融(後村上陵) |
右京区鳴滝宇多野谷 | 左京区鹿ヶ谷法然院町、鹿ヶ谷西寺ノ前町 | 右京区宇多野福王子町 |
追号=陵名となっている珍しい陵。陵墓は一時、所在不明だったが、明治22年(1889)現在の地に治定された | 「桜本寺」の前で火葬しその「山傍」に埋葬したらしい。明治22年になって「桜本寺の遺址」を陵と治定した。背後は椿ヶ峰 | (竜安寺近くの、今は無い勅願寺)円融寺で火葬され(今も竜安寺裏に「火葬塚」が残る)、縁の深い父・村上の陵の近くに葬られ、明治になって治定された |
65花山(紙屋川上陵) | 66一条(圓融寺北陵) | 67三条(北山陵) |
北区衣笠北高橋町 | 右京区竜安寺朱山 竜安寺内 | 北区衣笠西尊上院町 |
「法音寺の北に埋葬した」との史料を基に幕末に「法音寺の旧跡」を陵に治定した(本当の墓か不明) | 里内裏一条院から追号された。父・円融の火葬塚の傍に葬られたが、幕末に「堀河天皇陵と同域」に治定されている(経緯不詳) | 船岡山で火葬され「北山の小さな寺」に埋葬された。その後、所在不明になるが、明治22年になって現在の地に治定された(信憑性のほどは不明) |
68後一条(菩提樹院陵) | 69後朱雀(圓乘寺陵) | 70後冷泉(圓教寺陵) |
左京区吉田神楽岡町 | 右京区竜安寺朱山 竜安寺内 | 右京区竜安寺朱山 竜安寺内 |
神楽岡で火葬され、浄土寺に安置された。長久元年(1040)、母・彰子が火葬の地に「菩提樹院」を建て遺骨を移した。治定は明治22年 | 後朱雀・後冷泉・後三条と3代続いて同域に葬られている。各人の勅願寺(後朱雀は圓乘寺)の名前の陵名になっている | 後朱雀・後三条天皇陵と同域(竜安寺内)。宮内庁の地図で示すと上のようになる(赤丸が後冷泉陵)。後冷泉陵の写真はこちら |
71後三条(圓宗寺陵) | 72白河(成菩提院陵) | 73堀河(後圓教寺陵) |
右京区竜安寺朱山 竜安寺内 | 伏見区竹田浄菩提院町 | 右京区竜安寺朱山 竜安寺内 |
大炊御門万里小路殿址で崩御して、後朱雀・後冷泉天皇陵と同域に葬られた。各人の勅願寺は仁和寺の南側にあった(竜安寺の近くとも言える) | 香隆寺で火葬(火葬塚は「金閣小学校」北にある)、院政の地に鳥羽上皇が造った「成菩提院」の三重塔に改葬されたが、三重塔は焼失して不明に。幕末この地に治定された(厳密には「陵墓参考地」) | 生来病弱で、在位のまま29歳で崩御。香隆寺で火葬され(火葬塚は馬代通今出川上ルにある)、幕末、一条天皇陵と同域(後冷泉陵の後ろ)に治定された |
74鳥羽(安樂壽院陵) | 75崇徳(白峯陵) | 76近衛(安樂壽院南陵) |
伏見区竹田浄菩提院町 | 香川県坂出市青海町 | 伏見区竹田浄菩提院町 |
遺詔どおり安楽寿院の本御塔(三重塔)に葬られたが(白河同様)鎌倉時代に焼失。幕末、元の地に「法華堂」が建てられ、その地が治定された | 保元の乱で流され、讃岐「白峯陵」に葬られた。京都で崇徳を偲ぶなら崇徳の霊を祀っている白峯神宮(写真、ここに碑が建っている) | この地には美福門院墓所用に新御堂(三重塔)が建てられたが、美福門院が拒否したため、洛北知足院にあった近衛天皇の遺骨をここに移した。地震崩壊後、豊臣秀頼が多宝塔として再建した |
77後白河(法住寺陵) | 78二条(香隆寺陵) | 79六条(清閑寺陵) |
東山区三十三間堂廻り町 | 北区平野八丁柳町 | 東山区清閑寺歌ノ中山町 |
後白河が院政を敷いた法住寺から陵名が付けられた。場所も法住寺に近い。妙法院が歴代ずっと管理し続けてきた | 香隆寺の北で火葬され、遺骨は同本堂に納められたが、その後所在不明に。幕末の調査でも「陵地発見不能」であった。明治22年になって資料からこの地に裁可治定して廟陵を新たに造営した | 藤原邦綱の東山邸で病死し、近くの清閑寺に葬られた。その後所在不明になり、幕末高倉天皇陵と分割された。上の宮内庁地図でも「極近」。後清閑寺陵の後ろに微かに見える |
80高倉(後清閑寺陵) | 81安徳(阿彌陀寺陵) | 82後鳥羽(大原陵) |
東山区清閑寺歌ノ中山町 | 山口県下関市阿弥陀寺町 | 左京区大原勝林院町 |
遺詔によって清閑寺法華堂に埋葬された。清閑寺に近い方が「後清閑寺陵」。こちらは歌の中山からよく見える。治定は幕末 | 壇之浦の戦場で亡くなり下関に葬られた。京都で安徳の足跡は見つけられない | 承久の乱で流され、隠岐で火葬。遺詔が認められて大原に埋葬された。元禄年間(1688-)再建された十三重塔が後鳥羽天皇陵とされた。後鳥羽即位の年(文治元年(1185))平安時代が終わった |