(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
鎌倉時代以降の天皇の陵
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83土御門(金原陵) | 84順徳(大原陵) | 85仲恭(九条陵) |
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長岡京市金ヶ原金原寺 | 左京区大原勝林院町 | 伏見区深草本寺山町 |
16歳で譲位、27歳で配流、37歳で崩御 | 25歳で譲位、同年配流、46歳で崩御 | 4歳で廃位、17歳で崩御 |
建久9年(1198)即位、鎌倉時代になって初めて即位した天皇。父82後鳥羽・弟84順徳が流刑になったので、自ら申し出て土佐に流され阿波で崩御、遺骨は金原の地に埋葬された。陵の治定は幕末 | 承久の乱で佐渡に流され、20年在島で崩御した(佐渡院)。後に許されて遺骨は父・82後鳥羽と同じ陵域に埋葬された(左が順徳院、陵名は同じ) | 践祚はしたが、即位前に「承久の乱」で廃位され(84順徳の子であったため、在位2ヶ月半)「九条殿」で崩御した。葬地は不明。明治22年「本寺山」に治定された。写真は山に登る参拝道 |
86後堀河(観音寺陵) | 87四条(月輪陵) | 88後嵯峨(嵯峨南陵) |
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東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 | 東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 | 右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 天竜寺内 |
21歳で譲位、23歳で崩御 | 12歳で崩御(幼児転倒で) | 27歳で譲位、即院政、53歳で崩御 |
承久の乱の後処理で82後鳥羽・84順徳・85仲恭を除外したので、80高倉の系統から選ばれた。譲位後の崩御だが、遺詔で観音寺に土葬された。江戸末期(蒲生君平の山陵志)陵として定められた | 在位のまま崩御したとき(幕府に慮って)どの寺も忌避していたところ(87四条女御の祖父・九条道家の伝手で)泉涌寺が引き受け土葬し、墓所に新御堂が造営された。これが月輪陵の初めとなる | 亀山殿で火葬され(後に所在不明になったが)幕末に「偏愛した90亀山の龜山陵」の右に仲良く並んで陵が造られた。同じ場所だが「別の陵」と区別されている(先頭へ) |
90亀山(龜山陵) | 91後宇多(九条陵) | 94後二条(北白河陵) |
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右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 天竜寺内 | 右京区北嵯峨朝原山町 | 左京区北白川追分町 |
亀山殿で火葬され(後に所在不明になったが)幕末に「偏愛してくれた88後深草の嵯峨南陵」の左(奥)に仲良く並んで陵が造られた | 最後の院政を行い大覚寺で崩御、近くの蓮華峯寺の傍の山地で火葬・埋葬された。以降「大覚寺」がずっと祭祀を行ってきた。治定は正しい | 大覚寺統91後宇多の第一皇子、95後醍醐の異母兄。在位中に崩御したにも拘わらず、北白川殿で火葬された (先頭へ) |
95花園(十樂院上陵) | 北1光厳(山国陵)・102後花園(後山国陵) | 北2光明・北3崇光(大光明寺陵) |
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東山区粟田口三条坊町 | 右京区京北井戸町丸山 常照皇寺内 | 伏見区桃山町泰長老 |
持明院統92伏見の第四皇子、93後伏見の異母弟。北1光厳を教育指導した。十樂院の山の上で火葬されたが、その後所在不明。幕末に治定 | 南朝102後花園の遺詔により、北1光厳と同じ陵域に葬られた。陵名は異なる(「2つの陵がある」と宮内庁は認識している) | 南北朝正閏問題以前に整備されたため、遺骨は、北朝天皇でも「同様な陵」に葬られている(左が北2光明、陵名は同じ=取り扱いが微妙) |
96後醍醐(塔尾陵)・97後村上(檜尾陵) | 98長慶(嵯峨東陵) | 99後亀山(嵯峨小倉陵) |
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奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾 如意輪寺内 大阪府河内長野市寺元 観心寺内 | 右京区嵯峨天竜寺角倉町(天龍寺塔頭慶寿院址) | 右京区嵯峨鳥居本小坂町(福田寺址) |
両院とも平安京から遠い山奥に造陵された。96後醍醐塔尾陵の写真は江戸時代の「山陵図絵」から。97後村上檜尾陵は地図のみ | 大正15年(1926)歴代天皇に加えられた最も新しい天皇で、陵も疑陵(最も縁の深い地を陵と見做す)が昭和19年(1944)治定された | 南北朝合一を承諾した後、(太上天皇になって)吉野から大覚寺へ還御し、そこで崩御した。幕末に「福田寺址の石塔」に治定された (先頭へ) |
![]() | (鎌倉時代) 87四条 (江戸時代) 108後水尾 109明正 110後光明 111後西 112霊元 113東山 114中御門 115桜町 116桃園 117後桜町 118後桃園 が合葬されている |
東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 (先頭へ) |