(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
安和の変
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「安和の変」って「歴史年表」などには出てくるが、歴史の授業で習った記憶がない。一度きちんと調べてみよう。
源高明
村上天皇
冷泉天皇
安和の変
重要登場人物1:
源高明
延喜14年(914)生まれの
醍醐天皇第十皇子
で、母が「更衣・源周子」であるためか、延喜20年(920)
7歳
で
臣籍降下
して「源高明」を名乗った。
第十四皇子・寛明親王(後の61代朱雀、延長元年(923)
(9月)
生)、第十六皇子・成明親王(後の62代村上、延長4年(926)生)の「兄」にあたる。
天慶2年(939)26歳で参議、康保4年(967)には左大臣に。
その間、
(康保3年(966)右大臣のとき)
藤原実頼
の次女と結婚(天暦元年(947)頃没)、その後
(康保4年(967)右大臣のとき)
藤原師輔
の三女と結婚し、
支援勢力を固めた
。
そして、
珍しく
「
右京
四条一坊」の六町に亘る広大な領地・邸宅を持ったことから「
西宮左大臣
」と称された
(天暦4年(950)朱雀院火災の時は大変だったと思われます)
。
有職故実にも明るく「
西宮記
」
(公事・行事の儀式次第、作法、装束、制度などに関する解説)
をまとめた。
「西宮記」
源高明の邸宅「西宮」
(のあったあたり)
「京都府立資料館」から「江戸時代の写本」
「
朱雀院
」
(三条通と四条通の間、天暦4年(950)〜応和3年(963)は焼失期間)
の西隣
現在の「朱雀中学校」(
六角通御前東入ル
)を含む広大な敷地だった
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重要登場人物2:
村上天皇
病弱で皇子のいなかった兄・朱雀天皇が24歳で譲位した(天慶9年(946)4月20日)ため、中宮・藤原穏子の三男
醍醐天皇第十六皇子
・成明親王
(延長4年(926)生まれ)
が
天慶9年(946)
62代村上天皇になった。
村上が即位するまでの経緯は複雑で、下記に示す。何としても
中宮・藤原穏子
の子孫を天皇にしたかった様子が手に取れる。
醍醐天皇は2歳の第二皇子・保明親王
(女御・藤原穏子の長男)
を皇太子にしたが、延喜23年(923)
(3月)
21歳で没してしまった。
菅原道真の祟り
と考え、道真に「正二位を追贈」した。併せて「穏子を中宮」に冊立した。
仕方なく、保明親王の第一王子・慶頼王
(醍醐・穏子の孫)
を皇太子にしたが、これまた延長3年(925)5歳で没した。
さらに困って、延長4年(926)4歳の第十四皇子・寛明親王
(中宮・藤原穏子の次男)
を
3人目
の皇太子に立てた。醍醐は延長8年(930)病になり譲位して、寛明親王が61代
朱雀天皇
(8歳)になった。
朱雀天皇は即位後も「弘徽殿」で母・穏子と一緒に生活した程、母「べったし」だった。譲位も「母・穏子の意向」だったかもしれない。
治世は
天暦の治
と呼ばれ、表面的には「落ち着いた時代」だった。
村上天皇の皇太子は
天暦4年(950)更衣・藤原祐姫を母とする「第一皇子・広平親王」が生まれたが、
同年
「
(後の)
中宮・藤原安子
(右大臣
藤原師輔
の娘、中宮になるのは天徳2年(958))
」を母とする「第二皇子・憲平親王」も生まれたため、憲平親王がすぐに皇太子に立てられた。
村上天皇は
康保4年(967)
在位(在位21年)のまま崩御し、康保4年(967)7月5日、皇太子・憲平親王が63代冷泉天皇(18歳)になった。
慶頼王の墓
父・保明親王の墓は見つからないが、慶頼王の墓は左京区吉田牛ノ宮町に残る
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重要登場人物3:
冷泉天皇
ところが冷泉
(中宮・藤原安子の長男)
は、皇太子時代から
気の病
があり
即位すぐに冷泉を
補佐すべく
藤原実頼
が関白に就任して
(村上天皇の頃は関白は置かなかった)
、後嗣の検討に入った。
ここで候補になったのが、醍醐天皇の後嗣の候補を
中宮・穏子の子孫
に限ったのと同様に、村上天皇の後嗣の候補は
中宮・安子の子供
に限られた。
第四皇子・為平親王
(女御・藤原安子の次男、天暦6年(952)生まれ)
。父・62村上からは愛されていた。康保3年(966)
源高明
の娘と結婚した。
第七皇子・守平親王
(中宮・藤原安子の三男、天徳3年(959)生まれ)
。誕生後すぐに
母・安子が亡くなった
ので、安子の妹・登子に育てられ、登子の兄・
藤原兼通
に庇護された。
康保4年(967)の廟堂は、関白=
藤原実頼
(この時点では
源高明の岳父
ではなくなっている)
、左大臣=源高明、右大臣=
藤原師尹
(兼通の叔父)
。
関連する家系図
名前に接頭する数字は
父親から見た子の順番
守平親王=64代円融
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安和の変
康保4年(967)
63冷泉の後嗣検討は
年長の「為平親王」(後盾=源高明
(岳父)
)が有利とみられていたが
2ヶ月の検討
の結果、9月1日年下の「守平親王」(後盾=藤原兼通
(庇護者)
)が皇太弟に選ばれた。
廟堂の中心は
藤原氏
(関白+右大臣)
であり、
源氏が将来の外戚
になるのを阻んだのではないか。
源高明は不満足であったであろうが、この時の「感慨」を知る史料は残っていない。
安和の変が起こったのは、上記決定から「
1年半後
」の
安和2年(969)
3月25日。
源満仲と藤原善時が「橘繁延と源連が
為平親王擁立
の謀反を企てている」と密告した。
関白藤原実頼は「橘繁延と源連」を捕らえて尋問し『源高明が謀反に加担していた』と結論付けされて、3月26日「源高明の大宰府左遷」が決定された。
道真左遷事件(昌泰の変)
と同様で
藤原一族の陰謀
のように見て取れる。
「藤原一族を慮っている」人達が「源高明の失脚」を企てたか。
橘繁延・源連
(謀反を起こすような力を持っていたのか)
と源高明との関連はなにも見えない。
「皇太弟決定から1年半」も経っているので、「皇太弟決定に対する不満」が原因ではなさそう。
現に「為平親王はお咎め無し」で、親王は「32年後」出家するまで「一品・式部卿」の地位に留まっている。
陰謀の黒幕
(陰で操ったの)
は
藤原師尹
とのこと。
安和の変後
(63冷泉の在位は約2年)
、
安和2年(969)
9月23日、皇太弟・守平親王は64代
円融天皇
(11歳)になった。
64円融の後も「皇統争い」は続くのだが、「
65花山
も
67三条
」も
九条家
に嫌われ、
以降、
藤原安子の血統から
64円融・66一条・68後一条・69後朱雀・・・72白河・・・と天皇を輩出することになる。
村上天皇の「
村上陵
」
円融天皇の「
後村上陵
」
藤原安子の夫(村上)と息子(円融)は今も
近くに眠っています
(at福王子)
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