68.三条院
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こころにも |
あらてこのよに |
なからへは |
こひしかるへき |
よはのつきかな |
心にも |
あらで此世に |
ながらへば |
こひしかるべき |
よはの月かな |
心にも |
あらで此世に |
長らへば |
恋しかるべき |
夜半の月かな |
- ■歌について
- 退位の前の気持ちを詠った歌。(栄花物語によれば)長和4年(1015)在位中2度目の内裏火災で枇杷殿に遷御したときに詠った(とある)。
- ■出典
- 後拾遺集雑上
- ■作者略歴
- 第67代(976-1017,在位1011-1016)。冷泉天皇の第二皇子。母は藤原兼家の娘・超子(とほこ)。藤原氏内部の政争に巻き込まれ、36歳と遅れて即位、わずか
5年で退位、翌年崩じた。目の病気が譲位の理由になっている。
- 【補】
- 三条天皇は、在位中「2度も内裏災害」に遭遇し、2度とも枇杷殿を里内裏にした。
- 三条天皇は、東三条殿で誕生(天延4年(976)1/3)、一条院で受禅(寛弘8年(1011)6/13)、枇杷殿で譲位(長和5年(1016)1/29)、譲位後「三条院(譲位を強いた道長が造営してくれた後院(石碑は建っていない))」で崩御した(寛仁元年(1017)5/9)。
- 陵墓は北山陵である。
三条天皇の「即位、譲位」の経緯を整理してみよう。
- 62村上の後、「第二皇子の憲平」が63冷泉になり、63冷泉の気の病から「第七皇子の守平」が皇太弟になり、安和の変を経て守平が64円融になった。
- こんなことから、64円融の後は、冷泉系と円融系の両統迭立のような形が「暗黙の了解」になり
- 64円融の後は、「63冷泉の第一皇子の師貞」が65花山になり、65花山の皇太子は「64円融の第一皇子の懐仁(5歳)」となった。
- そのお陰で「63冷泉の第二皇子の居貞(後の67三条)」は9歳(懐仁の4歳年上)でも、皇太子になれなかった。
- 65花山は兼家の陰謀により在位わずか2年で退位させられ、懐仁皇太子が66一条(7歳)になり、迭立の順番で「64円融の第二皇子の居貞(11歳)」が皇太子になった。
- 皇太子の方が天皇より年上という異常事態になった。
- 兼家はこれで晴れて「外祖父摂政」になれた。
- 66一条は7歳なので、居貞皇太子は長い間待たされると諦めていたが、66一条は32歳で病没したため、36歳で67三条となった。皇太子は迭立の順番で「66一条の第二皇子の敦成」となった。
- 敦成皇太子は「道長の娘彰子の子」であるから、67三条が早く譲位すれば、その分早く「道長も外祖父摂政」になれる。
- ということで、道長はあの手この手を使って、67三条に譲位を迫った。かたや67三条はぬらりくらり在位を続けた。
- そんな折、67三条は上の和歌「こんな辛い世に長く生きるとは・・・」と詠った。
- 残念なことに63冷泉系の血を引いたか(冷泉/花山/三条)67三条は「眼病をはじめいろいろな病」に苦しみ、在位6年で譲位せざるを得なくなった。
- 敦成皇太子が68後一条になり、皇太子は迭立の順番で「67三条の第一皇子の敦明」となった。
- 強欲な道長は「外祖父摂政」を継続できるようにさらに手を打った。
- 67三条が譲位後すぐに崩御すると、待っていたかのように「敦明皇太子を廃して」、「66一条の第三皇子の敦良(後の69後朱雀)」を皇太子にした。これで両統迭立の根を断ち、円融系と言うか「66一条系」、更には「道長系」の路線で固定化した。