(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
藤原時平
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菅原道真の政敵であった故に「評価の低い藤原時平」。現代の視点で、藤原時平を評価してみよう。
藤原時平の家系から考える(後世の表面的)評価 菅原道真との経歴比較から考える評価 歴史書での藤原時平の評価 私説
- 藤原時平の家系から考える(後世の表面的)評価
- 祖父・良房から「藤原氏の摂関」が始まった。下の図はその家系を示す。
- 家系図を見る限り、時平(「シヘイ」と愛称された)は関白・基経の長男でありながら「摂関に就いていない」。弟(基経の四男)忠平(歌人としても有名)が摂関を継いでいる。
- 家系図的には「特別に有能であったとは見えない」(@)。
藤原時平の家系図 |
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- 菅原道真との経歴比較から考える評価
- 菅原道真との経歴比較
- 道真は「学者貴族」の家に生まれた。父・是善も文章博士で、参議・従三位まで昇った。
- 時平は(当時、大納言であった)基経の長男として生まれた。そのため「親の七光り」で出世した。17歳で「昇殿」。
- 26歳年上の道真はその頃、讃岐で「地方行政」担当していた。道真とは「雲泥の差」。
- 宇多天皇が即位すると、阿衡事件で宇多に「恩を売った」道真は抜擢されて、異例の昇進を遂げた。宇多には藤原氏の政権独占を抑えようという意図があった。
- 宇多が「13歳の醍醐」に譲位するとき「奏請・宣行のことはすべて時平・道真両人を経るように」と命じた。
- 若い醍醐は「宇多の意思」を継いで「時平・道真両人」を同じように昇進させた(左大臣・右大臣)。
- ここまでの時平は「父・基経の敷いたレール」の上を進み、「天皇の意思」はそのまま受け入れ、格別優れた働きは見えない(A)。
- 菅原道真の失敗
- (道真の意図は不明だが)
- 寛平8年(896)長女・衍子を宇多の女御に送り込んだ(女子を1人産んだらしい)。
- 昌泰元年(898)三女・寧子を斉世親王(宇多の第三皇子)妃に送り込んだ(男子(源英明)を1人産んだ)。
- この『外戚を狙っていると想像されかねない行動』が藤原一族の疑心を生み、昌泰4年(901)(1月)に誣告され「大宰員外帥に左遷」(昌泰の変)された。
- 醍醐天皇の宣命には「右大臣菅原朝臣は、専権の心あり、侫諂の情を以って前上皇(宇多上皇)を欺惑し、(醍醐天皇の)廃立を(云々)」とあり
- 要は『天皇を廃して、女婿斉世親王を立てようとした(道真が外戚になろうとした)』と判断された。
- 誣告したのは誰か。これが難しい。
- 後世の歴史書はほとんどが「時平の謀略」としている。
- これが「時平の評価を低くしている」最大の要因である。
- 訴え出たのは(当時大納言の)源光で、訴えを受けて処罰を醍醐天皇に上奏したのが(当時最上位、左大臣)時平、という説もある。
- 源光が「時平を慮って」訴えた。その結果(昌泰の変の後、道真の後任として)「右大臣」に抜擢された。この方が現実味が高い(B)。
- 菅原道真排除の後
- 廟堂は「時平の一人舞台」となり、醍醐天皇の延喜の治の前半を支えた(C)。
- 具体的には延喜格式(養老律令の補充法典)12巻を延喜7年(907)に完成させた(後を継いだ忠平が延長5年(927)延喜式として撰上した)。
- 寿命はどうにもならず「延喜式」完成の道半ば、39歳で没した(D)。
- 後世の評価が高くないのは「政治で腕を振るえる時間が短かった」からかもしれない。
年 | 区分 | 菅原道真 | 藤原時平 | 天皇 | 関連する出来事 |
年齢 | 出来事 | 年齢 | 出来事 |
承和12年(845) | | 1 | 誕生(菅原是善の三男) | | | 仁明 | |
嘉祥3年(850) | | 6 | | | | 文徳 | |
天安2年(858) | | 14 | | | | 清和 | |
貞観4年(862) | | 18 | 文章生(式部省試合格) | | | |
貞観13年(871) | | 27 | 少内記 | 1 | 誕生(藤原基経の長男) | |
貞観16年(874) | | 30 | 従五位下(兵部少輔) | 4 | | |
貞観18年(876) | | 32 | | 6 | | 陽成 | |
元慶元年(877) | | 33 | 文章博士 | 7 | | |
元慶4年(880) | | 36 | | 10 | | 時平の弟・忠平(基経の四男)誕生 |
元慶8年(884) | | 40 | | 14 | | 光孝 | |
仁和2年(886) | 時平、 親七光り 出世 | 42 | 讃岐守へ転出(890年春まで) | 16 | 正五位下(加冠) | |
仁和3年(887) | 43 | 17 | 蔵人頭 | 宇多 | |
寛平2年(890) | 46 | 20 | 従三位 | |
寛平3年(891) | 道真、 宇多の 肝煎りで 異例昇進 | 47 | 蔵人頭 | 21 | 参議 | 時平の父・基経没 |
寛平5年(893) | 49 | 参議、勘解由長官 | 23 | 中納言 | |
寛平6年(894) | 50 | 兼遣唐大使 | 24 | | |
寛平8年(896) | 52 | | 26 | | 道真の長女・衍子を宇多の女御に |
寛平9年(897) | 両者、 廟堂に 並ぶ | 53 | 醍醐の奏請宣行(内覧)の任に | 27 | 大納言、同左(内覧) | 醍醐 | 醍醐は13歳で即位 |
寛平10年(898) | 54 | | 28 | | 道真の三女・寧子を斉世親王(宇多の第三皇子)妃に |
昌泰2年(899) | 55 | 右大臣 | 29 | 左大臣 | 宇多上皇、法皇に |
昌泰4年(901) | 57 | 従二位 | 31 | 従二位 | |
| 大宰府へ左遷(昌泰の変)
大宰府で没 | | (左遷後)時平の妹・穏子を醍醐の女御に |
延喜3年(903) | | 59 | 33 | | |
延喜7年(907) | | | | 37 | 正二位、延喜格式撰進 | |
延喜9年(909) | | | | 39 | 没 | |
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- 歴史書での藤原時平の評価
- 宇多天皇の「寛平御遺誡」(譲位に際して醍醐天皇に残した訓戒書)
- 「時平は若いが、政務に通じているので、傍に置いてその指導に従え」と評している(E)。
- 醍醐天皇との逸話(「大鏡」−時平の善政)
- 時平は華美な装束で参内したため天皇の叱りを受けて謹慎した。これを見て貴族の贅沢が収まった。元を質せば、醍醐と時平が仕組んだことで、二人の仲は良かった、と「大鏡」は伝えている。
- 最も有名な逸話は、谷崎潤一郎の少将滋幹の母(元は「今昔物語」)
- 老齢の大納言・藤原国経の「美しい若妻」を時平が強奪する、という話(F)。
- 谷崎は「官位、才能、容貌、年齢、あらゆる点から云って、時平こそ、若妻にふさわしい」と書いており、時平を悪人とは言っていない。
- (蛇足)この若妻は「本院侍従(在原棟梁の娘)」で、滋幹・敦忠を産んだ。そしてこの小説の大団円では、弟・敦忠の西坂本山荘で、滋幹とその母(本院侍従)を「再会」させている。
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- 【私説】
- 道真左遷事件(昌泰の変)は
- 道真が宇多天皇の偏愛に馴れて(迂闊にも)「外戚を狙っていると想像されかねない行動」をとったことが「原因」。
- これをきっかけに「時平を慮っている」人達が「道真の失脚」を企図した(その中心が大納言・源光)(←B)。
- 時平はこの訴えを「廟堂の長」として実務的に判断を下した(←E)。
- 「好機」と思った故に「慎重さを欠いた」きらいはあるが。
- 醍醐天皇も17歳になり、宇多上皇の「庇護」から少しは脱したいと思っていたか、時平の上奏を(宇多に相談しないで自ら)裁可した。
- 世の中の評価のような極悪人ではなかったと考えます。
- 総じて言えば「青年エリートで、実務家」であったと評価するのが妥当だと考えます。
- 世の中を変革するような政治家ではなかった(←@、A、C、E)。
- もう少し長生きすれば、弟・忠平の出番はなく、摂関になれたのではないか(←@、D)。
時平・忠平撰上の「延喜式」 | 「寛平御遺誡」 | 「大鏡」時平の段 | 谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」 |
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「貴重本復刻シリーズ」(臨川書店)の表紙 | 「石川県立図書館」蔵書から | 「新潮日本古典集成」から | 「中公文庫」(2006年)表紙 |
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