19.伊勢
上の句順 下の句順 (INDEX)
なにはかた |
みしかきあしの |
ふしのまも |
あはてこのよを |
すくしてよとや |
難波がた |
みしかきあしの |
ふしのまも |
あはで此よを |
過してよとや |
難波潟 |
短き蘆の |
節の間も |
逢はで此世を |
過してよとや |
- ■歌について
- 藤原仲平との恋の歌である。次の元良親王と対句。
- ■出典
- 新古今集恋一
- ■作者略歴
- 877?-939?。伊勢守藤原継蔭の娘。宇多天皇の女御温子(よしこ)に仕え、宇多天皇の皇子行明親王を生み、伊勢の女御と呼ばれた。この前後にも、温子の兄藤原仲平、宇多天皇の皇子敦慶親王などとの恋もあり、古今当代一の美貌の女性歌人である。
- 【補】
- 相当な「歌の達人」だったようで、「古今集」への入集は女流で最多の「22首」、小野小町の「18首」を上回っている。
- 公任は「散り散らず 聞かまほしきを ふるさとの 花見て帰る 人も逢はなむ」を採り
- 俊成は「思ひ川 絶えず流るる 水のあはの うたかた人に 逢はで消えめや」を採り
- 定家は上の歌を採った。
- 「宇多天皇の皇子行明親王」生んだとあるのは間違い。行明親王の母は尚侍「藤原褒子」(よしこ、藤原時平の娘)。伊勢が生んだのは「夭折した皇子(名前は不詳)」。
- 中務卿敦慶親王との間に女児(後の歌人「中務」)を生んでいる。
最近の研究による「作者略歴」
- 貞観14年(872)出生説もあるが、これだと「温子」と同じ年になるので、貞観17年(875)頃出生と考えるのが自然か。そして仁和4年(888)(温子入内の年)頃女房として出仕した。
- 若き頃の最大の事件は「主人温子の異母弟・藤原仲平との稚い恋」。結局は破綻するのだが、(スキャンダラスな)噂が広まり、居た堪れず寛平3年(891)「大和に逃れ下った(父継蔭が大和守に転じていた)」。翌年には「温子に呼び戻された」が、この時の経験(自己内省)が後の「和歌作り」に活きることになった。
- (仲平との恋が破綻したとき)「人知れず 絶えなましかば わびつつも なき名ぞとだに 言うべきものを」(古今和歌集)
- (大和に逃れ下ったとき)「三輪の山 いかに待ち見む 年経とも たづぬる人も あらじと思へば」(古今和歌集)
- 復帰後も言い寄る男は多かったようだが、遂に「主人温子の夫・宇多天皇」とも関係があり寛平8年(896)皇子を出生した。不思議なことに「この関係は主人温子に容認」されたようです。
- (男が言い寄ってきたとき)「渡津海と あれにし床を 今さらに 払はば袖や 泡と浮きなむ」(古今和歌集)
- (宇多天皇から和歌が送られてきたとき)「久方の 中に生ひたる 里なれば 光をのみぞ 頼むべらなる」(古今和歌集)
- 寛平9年(897)宇多天皇は譲位し、温子と共に後院(朱雀院(右京四条一坊一〜八町)、「亭子院」(左京七条二坊十三〜十四町)移るが、伊勢もこれに同道し、延喜7年(907)温子が崩御(36歳)するまで「約20年温子に仕え続けた」。
- (温子が崩御したとき)「縒り合はせて 泣くらむ声を 糸にして 我が涙をば 玉にぬかなむ」(伊勢集)
- 温子崩御後は、温子の娘・均子内親王(宇多天皇との間の子、敦慶親王の妃)に仕えた。
- 均子内親王が21歳で亡くなると、その夫・敦慶親王(13歳年下)に愛され延喜10年(910)頃「中務」を産む。
- (敦慶親王の家で遊んだとき)「水の上に 浮かべる舟の 君ならば ここぞ泊りと 言はましものを」(古今和歌集)
- 敦慶親王(延長8年(930))、宇多法皇(承平元年(931))崩御を見送ってから、天慶元年(938)頃没した。場所は現在の高槻市古曽部にある「伊勢寺」という伝承が残る。
- (最晩年、中務と一緒に藤原敦忠の西坂本山荘を訪れたとき)「音羽川 せき入れて落とす 滝つ瀬に 人の心の 見えもするかな」(拾遺和歌集)
- 相当にもてた女性だったようで「夢とても 人に語るな 知るといえば 手枕ならぬ 枕だにせず」(新古今集)という官能的な和歌も残しているが、いろいろな醜聞を醜聞と感じさせない「人間性」を備えていたようです。
- (噂が立ったときも平然と)「塵に立つ 我が名清めん 百敷の 人の心を 枕ともがな」(後撰和歌集)
- (女房仲間が里下がりしたときには)「影見れば いとど心ぞ 惑はるる 近からぬ気の 疎きなりけり」(後撰和歌集)