(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
亭子院
(ていじいん)
(INDEX:索引へ)
歴史書に「亭子院」という名前がよく出てくる。私自身、知らなかったので、調べた。
亭子院
で一番有名なのは
亭子院歌合
だろう。
延喜13年(913)
3月13日に「
宇多法皇
主催の歌合せ」が
ここ
「亭子院」で行われた。
この時の和歌が多く「
古今和歌集
」に採られ、後の
歌合せの模範
になった。
その時の
記録(歌集)
は
重要文化財
(九州国立美術館所蔵)になっている。
参加者は、紀貫之、
伊勢
、
藤原定方
、
藤原興風
、凡河内躬恒、
坂上是則
、
敦慶親王
、
源宗干
など。
「亭子院歌合」で詠まれた和歌で、古今和歌集に採られた有名な和歌は
紀貫之
「桜花 散るぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞ立ちける」
凡河内躬恒
「今日のみと 春を思はぬ 時だにも 立つことやすき 花のかげかは」 など
「亭子院歌合」複製巻物
「amazon.co.jp」に出品されています。
俊恵
が書き写した物の複製のようです。手元に置きたい人がいるらしい
どうやら
亭子院
というのは
邸宅の名前
らしい。
「左京七条二坊十三〜十四町」という記録がある。
近くには「
東市
」と「
東鴻臚館
」があった。
「東市」は騒々しかったろうし、「東鴻臚館」は
(
承和6年(839)頃廃止
され)
「御薬園」として使われていた。なんで
こんな場所
を選んだのかはよくわからない。
すぐ北に宇多上皇が「不動堂」を建てた。
(寺伝によれば)
弘仁14年(823)空海が
東寺
を賜ったとき、東寺の鬼門(北東)を祀ろうとこの地を調べたところ、大きな霊石を見つけたので、この石に「不動明王」を彫刻して地中の井戸に安置した。
宇多上皇が
昌泰2年(899)この地に後院
を造ろうと工事を始めたところ、井戸の中から「不動明王像」が出てきたので、北側の地に「不動堂」を建ててここに祀った。
当初
(昌泰3年(900)頃)
は「
東七条宮
」と呼ばれていたらしい。
この邸宅は(原則)
皇太夫人・藤原
温子
の後院
として使われたらしい。
というのも
(宇多天皇の住居については
詳細後述
するが)
昌泰2年(899)
(12月24日)
に宇多上皇は出家し、本人は
(出家した身として)
仁和寺
に住むことが多くなったので、別居せざるを得なくなったからと思われる。
「
延喜3年(903)
8月、皇太夫人藤原温子、東七条宮に遷御あらせらる」という記録があるから、正式に遷ったのはこの年かもしれない。
ここに住み出してから、藤原温子は
東七条后
と呼ばれるようになった。
そして、池の中に「亭子
(あずまや)
」を設けていたことから「
亭子院
」とも呼ばれることもあった。
延喜7年(907)
に「東七条后(温子)」が崩御し、延喜13年(913)の「亭子院歌合」が有名になると、「亭子院」の名前の方だけが使われるようになった。
亭子院の位置(平安時代)
同左(現在は「油小路通塩小路下ル」あたり)
「2町」に跨っていた
現在は
不動堂明王院
がある
宇多天皇自身も「亭子院」
と呼ばれる。
宇多天皇は譲位
(寛平9年(897)7月3日)
後、どこに住んだかと言うと
(結構「あちこち」彷徨っていたので、明確ではないですが)
最初は、実母
(班子)
の後院「
東院
」に同居した。
「東院」がどこにあったのかは不明だが、班子女王は「東院后」「洞院后」「六条后」と呼ばれたから「東洞院大路六条」あたりにあった可能性がある
(全くの推測です)
。
寛平10年(898)
(2月17日)
朱雀院
に移る。
朱雀院は
嵯峨天皇
が承和年間(834-)に建てた後院で、宇多上皇がこれを整備した。ここまでは皇太夫人藤原温子も同行した。
昌泰2年(899)
(10月24日)
仁和寺
で出家し、仁和寺に
御室
を造り、ここに住んだ。承平元年(931)
(7月19日)
仁和寺で崩御しているので、この期間は
仁和寺を本宮
としていたとみてよい。
とは言え、(A)延喜9年(909)または延喜14年(914)〜延喜16年(916)は
亭子院
、(B)延喜17年(917)〜延長6年(928)は
六条院
(源融の
河原院
が→源昇→宇多法皇と受け渡されたところらしい)
を「別宮」としていた。住居に関して
相当な浮気性
であった。
冒頭の
亭子院歌合
は、亭子院が別宮だった前後に行われたことになる。
宇多上皇(法皇)から出される「
宣旨
」はその時の「宮名」が使われるので、宣旨を見て宇多本人を「亭子院」「六条院」と呼ぶことが多くなった。
宇多天皇は譲位して「宇多天皇」と
追号
されたので「
宇多院
」と呼ばれるのが正式であるが、ここにも「不思議」が潜んでいる。
この頃の天皇の「追号」は「場所に因んで」付けられることが多いことから「宇多」という場所がどこかにあったはずである。
これで追いかけると、父・
光孝天皇
が親王時代
(55歳まで時康親王であった)
に住んでいたのが「宇多院」という記録が見つかる。
時康親王の「宇多院」は「
右京北辺
五町」
(〜八町、当時はあまり人の住んでいなかったところ)
だった。
そもそも「宇多(うだ)」とは「禁裏御料の狩猟地」のこと。それほど「森、野原」ばかりだったのだろう。
宇多天皇(
(したがって)
うだ
(てんのう)
)の若い頃(「定省王」または「
源定省
」)「ここに住んでいた」ということはありうると考えます。
「宇多院」のあったあたり
現在は
「一条通」「上長者町通」と「木辻大路」「馬代通」
に囲まれたあたり