88.皇嘉門院別当
上の句順 下の句順 (INDEX)
なにはえの |
あしのかりねの |
ひとよゆへ |
みをつくしてや |
こひわたるへき |
難波江の |
あしのかりねの |
一よゆへ |
身をつくしてや |
恋わたるべき |
難波江の |
蘆のかりねの |
一よ故 |
身をつくしてや |
恋わたるべき |
- ■歌について
- 藤原兼実が右大臣のときの歌合で、「旅宿に逢う恋」という題詠である。序詞・掛詞・縁語の技巧を尽くしている。刈り根の一節(よ)と、仮寝の一夜、を掛けている。
- ■出典
- 千載集恋三
- ■作者略歴
- 生没年未詳(1175の頃)。太皇太后宮亮(皇太后宮亮の間違いだろう)源俊隆の娘といわれる。当時の摂政藤原兼実の歌合によく加わる。この皇嘉門院は、崇徳天皇の中宮聖子(きよこ)。
- 【補】
- 仕えていた皇嘉門院の陵は月輪にある。
「皇嘉門院別当」はほとんどわからない。
- 父は「源俊隆」。
- 源俊隆の生没年も不明。元永3年(1120)「治部少輔」で、「皇太后宮亮」が最終官位のようです。
- 元永3年(1120)「治部少輔」は初任官だろうから、康和2年(1100)少し前に生まれたか。
- この「皇太后」は藤原聖子だろうから、とすれば永治2年(1142)頃の就任となる。
- 「左京四条二坊六町」(現在の錦小路通堀川西入ル)に邸宅があったという記録が残っている。
- 父の年齢から考えて、「皇嘉門院別当」は天治2年(1125)辺りの生まれか(数年前後の違いはあるだろうが、一つの目安にはなる)。
- とすれば、藤原聖子より「3歳年下」で納得しやすい。
- 聖子が永治元年(1142)(12月)「皇太后」になったとき、18歳。父が「皇太后宮亮」になり、その縁で「皇太后の女房」として出仕した(と想像できる)。
- 聖子が久安6年(1150)「皇嘉門院」になったとき、26歳。
- 別当は「家政を司る官長」のことで、「皇嘉門院」の下でこの役目を務めていたのではないか(父俊隆が別当職についた記録はない)。
- 聖子の夫・崇徳は保元元年(1156)保元の乱で讃岐へ流されたが、聖子は父・藤原忠通、九条兼実の支援を得て、出家の身で都で過ごした。
- 聖子は(いつの頃からか)「左京九条四坊五町・六町」(東寺の東、川を渡れば泉涌寺)に「九条殿」を持っていたから、ここで働いていたに違いない。
- 九条兼実も「左京九条四坊十二町」に「九条第」を持っていたから、比較的頻繁に「行き来」したのではないか。
- 「皇嘉門院別当」は養和元年(1181)頃出家し(57歳)、養和元年(1182)(12月)皇嘉門院が亡くなるまで、皇嘉門院に仕えた。没年も不明。
残っているのは「和歌」のみなので、「和歌を整理」してみましょう。
- 残っている和歌はすべて「皇嘉門院別当」名なので、久安6年(1150)(26歳)以降ばかりのはずですが
- 現実には、治承2年(1178)(54歳)以降の和歌が圧倒的に多い。老いてから「和歌に目覚めたか」「和歌を詠む時間ができたか」。
- 「思ひ川 岩間によどむ 水茎を かき流すにも 袖は濡れけり」は「新勅撰歌集」に採られた。
- 時期不詳。恋文を書きながら涙を流す女心を詠んだ和歌。自分の心を詠った和歌なら、「皇嘉門院別当」になった頃の和歌でしょうか。
- 「忍び音の 袂は色に 出でにけり 心にも似ぬ わが涙かな」は「千載集」に採られた。
- 詞書に「摂政右大臣の時の百首歌の時」とあるから、文治2年(1186)頃の和歌と思われるが、和歌の解釈本には「治承2年(1178)5月」とある。
- 「忍ぶ恋」の和歌。いずれにしても50歳以降に詠んだ技巧の和歌。
- 「嬉しきも 辛きも同じ 涙にて 逢ふ夜も袖は なほぞ乾かぬ」も「新勅撰歌集」に採られた。
- 詞書に「後法性寺入道前関白家百首歌」とあるから、建久8年(1197)頃の和歌と思われるが、和歌の解釈本には「治承2年(1178)」とある。
- 「初めての情事」を詠った和歌。高齢になって「初めての情事」はないだろうから、和歌読みのための和歌でしょう。若い頃「そういう経験」があったか。
- 和歌を整理しても皇嘉門院別当の人生には近づけない。
- 「雲もなく 凪たる空の 浅緑 虚しき色も 今ぞ知りぬる」は「続後撰集」に採られた。
- これも、詞書に「後法性寺入道前関白家百首歌」とあるから、建久8年(1197)頃の和歌と思われるが、和歌の解釈本には「治承2年(1178)」とある。
- 「空を見ていると“色即是空”の意味がわかる」。もう出家していた頃の和歌ですから、唯一残る「本音の和歌」。
- 一言で言えば、ずっと九条殿で皇嘉門院の家政を担ったしっかり者で兼実の知己を得て(永万元年(1165)、40歳を越えてから)和歌を詠み始めた独身の女性だったと想像されます。