9.小野小町
上の句順 下の句順 (INDEX)
はなのいろは |
うつりにけりな |
いたつらに |
わかみよにふる |
なかめせしまに |
花のいろは |
うつりにけりな |
いたづらに |
我身よにふる |
ながめせしまに |
花の色は |
移りにけりな |
いたづらに |
我が身世にふる |
ながめせしまに |
- ■歌について
- わが身の容色の衰えを嘆く歌と理解されている。
- ■出典
- 新古今集春下
- ■作者略歴
- 生没年不詳。仁明天皇の頃(833)の人。美人としても有名で、深草少将の百日通いの逸話もある。全国各地に遺跡がある。歌もうまく、古今集・後選集にも
21首を残す。京都随心院には、小町化粧の井、小野文塚がある。六歌仙の一人に数えられている。
- 【補】
- 随心院はこちらにまとめてあります。京都では補陀洛寺が終焉の地となっている。
- 京都丹後にも小野小町ゆかりの地はある。小野小町温泉、小野小町公園。
- 吉田兼好は徒然草173段で「小野小町が事」を書いている。
- 小野小町が晩年に詠った和歌の検討はこちら。
(私の尊敬する)角田文衛博士の推論による「作者略歴」
- 小野永見(篁の祖父)の子「小野滝雄」(出羽守として下向中)の子(現地妻との間)として弘仁11年(820)頃(出羽国で)生まれた(小野篁の孫ではない、従姉弟にあたる)。
- (任期の開けた)弘仁14年(823)頃、帰洛し「滝雄」の家(小野家、右京二条二坊のどこか)で成育された。小野篁の遣唐使拒否事件(承和5年(838))はこの頃。
- 承和8年(841)頃(22歳、篁赦罪直後)、宮中に出仕。
- 図らずも仁明天皇の寵愛を受け「更衣」(正六位上)に。しかし皇子女を宿すことないまま、仁明天皇崩御後(嘉祥3年(850))実家に戻された(従五位下、31歳)。
- 嘉祥3年(850)以降は、歌壇での付き合いに終始したか(おそらく未婚のまま)。
- 貞観6年(864)頃(45歳)までは生存していた。没年、墓は不明(この辺が伝説の始まり)。