(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
近松門左衛門と京都
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期間番号 | 期間(開始年〜) | 主な活動 | 主な作品 | 関連する写真 | 補足 |
1 | 承応2年(1653)生誕〜 (幼少時代) | 福井・越前藩士「杉森市左衛門信義」の次男として生まれる(幼名=次郎吉)。11歳の時(1663)父が浪人した。 (ここにもいろいろな説があるが)13歳の時(1665)近松伊看の名目養子になり 摂政関白一条恵観の「公家侍」として仕えた。 「長州生誕説」もあったが、最近では福井生で確定。 | 俳句「白雲や 花なき山の 恥かくし」が山岡玄隣著「宝蔵」(1671)に両親兄弟の句と一緒に載っている(したがって詠んだのは幼少期)。 | 母(喜里)は越前藩医「岡本為竹」の娘、兄(智義)は後に大宇陀藩医、 弟(伊恒星)は岡本家の養子になり後に町医者岡本一抱に(どうやら医者の家系か)。 (左の説に従えば)13歳の時「近松門左衛門信盛」になったことになる。 |
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2 | 寛文5年(1665)〜 (公家侍時代) | 一条恵観に仕えた時どこに住んでいたかは明確でなく、「一条邸」に寝所をもらった、山岡玄隣邸(永観堂の西)近くの小家、などの説がある。 仕事も明確でなく、雑掌であったとか、有職故実担当の事務武官だったとか。 一条恵観の兄後水尾上皇、取り巻きの公家(正親町公通、町尻兼量、阿野実藤)に気に入られたのは確かなようです。 | 「一条邸内に寝所をもらった」として、一条邸は「現在の御苑の北西あたり」にあったはずで、その付近の写真を左に示した。 この時期「修学院離宮」「止観亭」(現西賀茂南川上町、恵観の山荘)で古浄瑠璃を何回か見た(これが将来のきっかけ)。 |
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3 | 延宝元年(1673)〜 (作家修行時代) | (1)一条恵観没(1672)後「高観音近松寺」(大津市、一条家の紹介か)で居候して「浄瑠璃の勉強」を始める。 (2)意を決して(1677)宇治加賀掾(嘉太夫)に弟子入り(宇治座で下積み修行)。 (3)世継曽我(分かっている最初の台本)が宇治座(1683)、竹本座(1684)で上演される。 | (近松門左衛門の墓がある)広済寺のHPには「世継曽我」以前の作品リストが掲載されている。その内のいずれかは真作かもしれない。 「世継曽我」(両座で大入り興行) | 宇治座住み込み無給で働かされたが、名人嘉太夫(18歳年上)膝下だったから、名作家になれた。 後年(1711)嘉太夫は失意の下、頂妙寺(写真)に葬られた。 |
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4 | 貞享2年(1685)〜 (独立作家時代) | (1)(1686)「佐々木先陣」が初の署名入り浄瑠璃台本となり、台本作家としての地位確立。 (2)坂田藤十郎のために一時期歌舞伎の台本(仏母摩那山開帳など)を書く(1693−1699)。 | 「出世景清」(1685)(竹本義太夫のために書いた、これも大当たり) 「津戸三郎」(1689)(竹本座) ・・・・・・・・・・ 「百日曽我」(1700)(竹本座) 「団扇曽我」(1700)(宇治座) | 坂田藤十郎の歌舞伎は「四条河原の都万太夫座」(現在の南座、写真)で上演された。 | |
5 | 元禄16年(1703)〜 (義太夫近松時代) | (1)(1703)初の心中物「曽根崎心中」(竹本座)が爆発的な興行になった。 (2)(1705)「用明天王職人鑑」の時から竹本座の座付作者になり「作者・近松門左衛門、太夫・竹本義太夫、座本・竹田出雲」の体制を確立した。 | 「日本王代記」(1703)(建浄瑠璃) | 竹本座に書き始めてから「大阪(浄瑠璃)−京都(歌舞伎)」を頻繁に往復。 京都では「永観堂西」(写真、右手前=永観堂、道路の向こう=西町)俳諧の師匠山岡玄隣旧邸の近くに住む(所帯を持つ)。 |
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6 | 宝永3年(1706)〜享保9年(1724)没 (作家全盛期) | (1)体制確立を機に(1706)、大阪へ移住。 (2)以降世話物の名作を次々に書き上げる。 (3)(1724/11/22)72歳で没。 辞世の和歌を詠んでいる。 | 「心中重井筒」(1707) 「傾城反魂香」(1708) 「冥途の飛脚」(1711) 「国姓爺合戦」(1715) 「鑓の権三重帷子」(1717) 「心中天の網島」(1720) 「女殺油地獄」(1721) 「心中宵庚申」(1722) 「関八州繋馬」(1724) | この間、(1709)坂田藤十郎没(63歳)、(1711)宇治加賀掾没(77歳)、 (1714)竹本義太夫没(64歳)。 墓はなぜか3つある。(1)「広済寺」(現尼崎市、本人が生前に作った) (2)「妙法寺跡」(大阪市中央区、寺が移転しても墓だけ残した) (3)「妙法寺」(大東市、(2)の寺の移転に伴う) |
「鑓の権三重帷子」(1717) | 「菅原伝授手習鑑」(1746) | 「義経千本桜」(1747) | 「仮名手本忠臣蔵」(1748) |
(作者=>)近松門左衛門 | 竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・並木千柳 | 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳 | 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳 |
「敵討ち」から逃げる「権三とおさゐ」は三条大橋へ(映画には出てくるが、文楽では場面がない)。その後「伏見京橋袂船着場の場」で討たれる。 | 四段目「寺子屋の段」。菅秀才を逃がすため、源蔵は見替わりで息子の首を落とし松王丸に渡す。北山の山奥に勢龍天満宮がある(本当か)。 | 二段目「伏見稲荷の段」。逃げる義経が伏見稲荷鳥居前で静に初音の鼓を形見として託す。 | 七段目「祇園一力茶屋の段」(写真)。お軽は本心を知るため由良之介の書状を盗み見、由良之介は床下に隠れていた斧九太夫を刺し殺す。 |