(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
顔見世
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12月になると南座に「まねき」が揚がる。これで年末の雰囲気が一気に盛り上がる。
この風物詩があるのも京都だけ。東京では経験できない。これを目当てに年末に上洛する東京人も多い。
- 毎年12月、四条河原町の南座では「吉例顔見世興行」が行われる。通常、顔見世と呼ばれる。
- 言わずと知れた歌舞伎の公演である。
- 江戸の頃歌舞伎役者と座元との契約は年俸制であり、契約のできた役者が次の1年はこの座に出演しますとのお披露目興行をやったことに始まる、と言われている。
- 元禄の頃から始まった。
- 「遊女が初めて勤めに出るとき揚屋を回ってあいさつする」ことを「顔見世」と言っているが、これと同じ意味からこの興業の名前も「顔見世」となった。
- 明治も後半になって昔の座が松竹に一本化され、東西で顔見世興行が行われた時期もあったが、大正2年(1913)頃から南座での東西合同の顔見世に一本化されたらしい。
- このへんの経緯は必ずしも明解ではないが、一本化するなら「歌舞伎発祥の地京都でやろう」という意識が働いたものと想像される。芸能の歴史上の原点も京都にあるということらしい。
- 1960年頃からは、10月の御園座、11月の歌舞伎座での「顔見世興行」も行われるようになった(営業拡大のため)。
- とは言え、華やかさ・歴史の点で、単に「顔見世」と言えば12月の南座顔見世興行を指す。
- 12月の南座顔見世興行には「まねき」が揚がる。まねきが揚がるのも京都南座だけ。
- 「まねき」とは、勘亭流の文字で出演役者の名前を書いた看板のこと。
- 大入りを願い、お客に役者のPRをする、一石二鳥の昔のマーケティング手法。
- そのため、目立つ字体で、しかも「大入りの縁起をかついで内へ丸く曲げるように書く」字体になっている。岡崎勘亭(勘六、享和2年(1802)没)が始めたと言われている。
- 四条河原の芝居座の歴史。
- 元和年間(1615-)7ヶ所の櫓が公許された(これが始まり)。
- 元禄年間(1688-)までには、四条通に面して「南側に3軒、北側に2軒」、大和大路通に面して「北側に2軒」が揃った。
- その後、興亡を繰り返し、明治26年(1893)四条通南側に1軒だけが残った(これが現在の南座に繋がる)。
團十郎と海老蔵のまねきが揚がっています。
とても豪華です。
「史上初」との話です。(H16-11-27撮影)
- 【川柳】
- まねかれて 今年も四条の 顔見世へ
- 演技より 顔ぶれ気になる 京の暮れ
- 京に来て 見上げるまねきに 心沸く