80.待賢門院堀河
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くろかみの |
みだれてけさは |
物をこそ思へ |
長からむ |
心も知らず |
黒髪の |
乱れて今朝は |
物をこそ思へ |
- ■歌について
- 藤原顕輔の歌と同じく崇徳院久安六年百首の歌。後朝の恋の歌。殷富門院大輔、二条院讃岐の歌同様の妖艶美好みで撰ばれたと思われる。
- ■出典
- 千載集恋上
- ■作者略歴
- 生没年未詳(1143の頃)。神祇伯顕仲の娘、前の斎院(令子内親王)に仕える六条の妹(または本人?)、といわれる。この待賢門院は、鳥羽天皇の女御璋子、崇徳院の母。
- 【補】
- 堀河の使えた「待賢門院」についてはこちらにまとめた。
「待賢門院堀河」も「史料」が少ないですが、分かっていることを整理してみました。
- 「康和2年(1100)」頃出生したという説が最近浮上している。しかし名前はわからない。
- 父は神祇伯「源顕仲」で間違いないらしい。「金葉和歌集」に入首している歌人でもあった。
- 母は不詳。「堀河」を生んだ母は「正妻」ではなかった。
- 同腹の妹に(後の)「上西門院兵衛」(やはり歌人で和歌を残している、上西門院に最期まで仕えた)がいる。
- 「父の縁」で前斎院に仕え「六条」と呼ばれた。
- 前斎院というのが、これまでの研究では「令子内親王」とされていたが、最近の研究では「禎子内親王」(三条天皇の娘禎子内親王とは同姓同名)である、との説の方が有力らしい。
- 祖父「顕房」が「六条内府」と呼ばれていたことから「六条」と呼ばれるようになったらしい。
- 禎子内親王の出家に(天治2年(1125))伴い「致仕」した。この頃結婚し、一児をもうけた。
- 残念ながら、まもなく夫(名前など不詳)は亡くなり、子供は父・顕仲の養子にしてもらった(多分、寺に出された)。
- その後「妹の縁」で、待賢門院(院号宣下が天治元年(1124))の女房として再出仕し、この時から「堀河」と呼ばれるようになった。
- (多分)妹が斎院を退下した統子内親王に出仕し(長承元年(1132))、姉を統子内親王の母・待賢門院の女房に推薦した(のではないか)。だから再出仕したのは「長承2年(1133)」頃か。
- なぜ「堀河」と呼ばれるようになったのかは、不明。
- 待賢門院の出家に付き従って康治元年(1142)出家、法金剛院に近い仁和寺に住んだ。待賢門院は久安元年(1145)に没しているが、堀河は崇徳院「久安六年百首」の詠進者になっているから久安6年(1150)までは生きていた。没年は不明。
- 残っているのは「和歌」のみ。和歌から「いろいろ整理する」のみです。
- 「露しげき 野辺にならひて きりぎりす わが手枕の したに鳴くなり」は「金葉和歌集」に前斎院六条として採られた。
- 天治2年(1125)以前(25歳未満)の和歌である。
- 「言ふかたも なくこそ物は 悲しけれ こは何事を 語るなるらむ」は自撰の「待賢門院堀河集」に載っている。
- 「伴侶が亡くなって嘆いているのに、幼い子供は何かお喋りしている」と詞書にあるので、大治5年(1130)頃の和歌か。
- 待賢門院が亡くなって1年経った頃(久安2年(1146))法金剛院にお参りして「君恋ふる 嘆きのしげき 山里は ただ日暮しぞ 共に泣きける」(大好きだった御主人が亡くなって、今も蝉(ヒグラシ)と一緒に泣くだけです。金葉和歌集)と詠んだ。待賢門院との関係が深かったので今でも「待賢門院堀河」と呼ばれる。
- 同じ頃西行から和歌が贈られてきて「吹く風の 行方知らする ものならば 花と散るにも 遅れざらまし」(風が女院の行方を教えてくれるのなら、私がその風の後を追っていきますわ)と返した。
- 西行が贈った和歌は「尋ぬとも 風のつてにも 聞かじかし 花と散りにし 君が行方を」(花のようにお散りなった女院の行方を、お聞きすることは出来ないのでしょうね)で、共に西行の「山家集」に載っている。