(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典:番外)
平城京時代の政変
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平城京に都があったのは「和銅3年(710)〜延暦3年(784)」とわずか
70数年
であったが、意外と
政変が多かった
。皇位継承で紛糾したからであろう。
併せて
天智系と天武系の交替
についても考えたい。
天武系の始まり
聖武天皇の頃
孝謙天皇の頃
聖武天皇の内親王
天智系と天武系の交替
天武系の始まり
天武天皇に関しては
謎が多い
。かつ
子女
が多く、皇位継承を複雑にした。
下に家系図を示したが、その図に書かなかった「子女」をいかに示す。
第一皇女:十市皇女(653年? - 678年) - 大友皇子(弘文天皇)妃、母はあの「額田王」。
第二皇女:大来皇女(661年 - 701年)- 伊勢斎宮。
皇女:但馬皇女(? - 708年)- 高市皇子妃。
第五皇子:穂積皇子(? - 715年)。
第七皇子:長皇子(? - 715年) - 文室真人・文室朝臣等の祖。
第八皇子:不明。
第九皇子:弓削皇子(? - 699年)。
皇子:磯城皇子(? - ?) - 三園真人・笠原真人・清春真人の祖。
皇女:田形皇女(675年 - 728年) - 伊勢斎宮。
皇女:泊瀬部皇女(? - 741年)- 川島皇子妃。
皇女:託基皇女(? - 751年) - 施基皇子妃。
B大津皇子
は、朱鳥元年(686)天武崩御の時、川島皇子から「謀反あり」との密告を受けて、捕らえられ、翌日
自害
した(24歳)。
朱鳥元年(686)のこの事件は
42文武即位の脅威を取り除く
(政変)
ために起こったと考えられている。
二上山に移葬されたとき、大来皇女が詠った「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を弟と 我が見む」和歌は有名。
A草壁皇子
の母は41持統であり
壬申の乱
にも参加しており、天武天皇681年(686)には
立太子
したとも。しかし持統称制689年「28歳」で
早世
した。
天平宝字2年(758)46孝謙のとき
岡宮天皇
の尊号が贈られた。
@高市皇子
の母は「福岡・宗像地方の娘」
(これも「大海人皇子」を想像させられる)
と知られるだけで、不詳。そのためか「皇位継承権は無い」と見られていたようで、天武朝を支え、持統天皇690年には
太政大臣
にまで昇ったが、持統天皇696年没した(43歳)。
C忍壁皇子
の母は「宍人大麻呂の娘」のためか、天武・持統朝では「優遇されなかった」。文武朝になって「大宝律令の選定」に携わったが、皇位に無関係のまま、慶雲2年(705)
没した
。あの有名な
高松塚
に葬られたと考えられている。
(
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)
神亀6年(729)
(2月)
長屋王の変
長屋王は「@高市皇子の子」。
神亀5年(728)聖武天皇の皇太子「基王」が2歳で夭折したことを因に、神亀6年(729)「長屋王が呪詛した」との疑いで、聖武天皇の親衛隊に捕らえられ、翌日「吉備内親王」と共に
自害
した。
廟堂で争っていた「藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)」の
長屋王追い落とし(政権争い)
(皇位争いではない)
と考えられている。
10年後「冤罪」であったことが明らかになった。
天平14年(742)
塩焼王流刑
(聖武天皇による)
塩焼王は「I新田部親王の子」、「藤原鎌足の曾孫」。
神亀5年(728)聖武天皇の皇太子「基王」が夭折したことで、
聖武天皇には男の
(藤原氏の血を引く)
皇位継承者がいない
状態になった。
手始めに、天平4年(732)か天平10年(738)の頃、聖武天皇皇女
不破内親王
を塩焼王に嫁がせた。皇位継承者の誕生を期待してのことだろう。
この結婚を機に、塩焼王は叙任され
関東行幸
に随行するまでになったが、天平14年(742)「恭仁京」で
伊豆流刑
を言い渡された。
流罪の原因は分かっていない。「大仏造立に異議を唱えた」説、「女孺との性的不始末」説などがある。
流刑は「聖武天皇に
塩焼王は皇位継承者誕生として不適格
(政変)
」と判断されたためらしい。
「塩焼王が法的な罪を犯した」訳ではなかった。現に、聖武天皇の天平17年(745)には赦されて帰京している。
それでも結局は(孝謙太上天皇による)
仲麻呂の乱
に巻き込まれて、天平宝字8年(764)戦場で敗死した。
天平16年(744)
安積親王薨去
(参考)
安積親王は、聖武天皇の皇太子「基王」が夭折した神亀5年(728)、聖武天皇の 第二皇子として生まれた。
母「光明子
(光明皇后)
」の子として生まれた「基王」が生後32日で立太子したのに対して、母「県犬養広刀自」の子として生まれた安積親王は「第二皇子」であったが、
立太子されなかった
。
安積親王には
藤原氏の血統が無く
、政権中枢にいた「藤原氏」の反対があったのだろう。
そうこうしている内に、立太子もないまま、天平16年(744)
17歳で早世
した(政変ではない、参考までに記載した)。
@〜Iは天武の皇子番号
丸括弧内は「生年−没年」
角括弧内は「天皇在位期間」
青枠は「男性天皇」
赤枠は「女性」
(
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)
天平勝宝9年(757)
(3月)
道祖王、皇太子を廃される
(孝謙天皇による)
道祖王も「I新田部親王の子」、「藤原鎌足の曾孫」。
天平勝宝8年(756)聖武天皇は崩御前に
違詔
を残し「道祖王を
46孝謙の皇太子
」とした。
ところが
46孝謙は道祖王を嫌い、1年足らずで廃太子
(政変)
とした(天平勝宝9年(757))。
原因ははっきりしないが、兄
塩焼王
と同様「性的不始末癖」があったらしい。
そして同年4月E舎人親王の子
大炊王を皇太子
に立てた(後の淳仁47)。46孝謙は父聖武の違詔を反故にした。
さらに同年7月
橘奈良麿の乱
に巻き込まれて、道祖王は
獄死
した。
「橘奈良麿の乱」も実は、「奈良麿追い落とし」が目的ではなく。「道祖王殺害が目的だった」可能性もある。
天平宝字8年(764)
47淳仁、廃位される
(孝謙太上天皇による)
大炊王は「E舎人親王の子」、「藤原鎌足の曾孫」。
天平勝宝9年(757)道祖王の廃太子により皇太子になり、翌天平宝字2年(758)46孝謙譲位(41歳)により「
47淳仁
」(26歳)となった。
ようやく「草壁系」でない天皇が出現した。これで一区切りとなって、天平宝字2年(758)孝謙太上天皇は曾祖父・草壁皇子に「
岡宮天皇
」の尊号を贈った。
天平宝字5年(761)孝謙太上天皇(44歳)は
看病禅師・道鏡
を知るや、これを重用した。
天平宝字6年(762)孝謙太上天皇は「道鏡の重用を諫めた47淳仁の天皇大権」を剥奪し、
天平宝字8年(764)武力をもって「47淳仁を廃位」させ、
47淳仁を淡路へ配流した
(政変)
。自らは
重祚
(47歳)して「48称徳」に、道鏡は
太政大臣
に。
さらに「孝謙太上天皇・道鏡」に対抗しようとした紫微令
藤原仲麻呂
も武力で破り、琵琶湖畔で
斬殺
した。
孝謙は好悪の情が激しい
。
(後日談)
E舎人親王系の「和気王」は「47淳仁の復帰を願っている」と訴えられて、天天平神護元年(765)伊豆へ流された。
同年47淳仁は「配流所から逃げた」として
(前天皇なのに)
殺害された(33歳)。この怨霊を鎮めるために
白峯神宮
に祀られた。
これで「新田部親王系」に続いて「舎人親王系」も絶滅、
天武系では草壁(岡宮天皇)系を残すのみ
となった。
(
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)
不破内親王
(草壁系/聖武天皇の第三皇女)
なかなか数奇な経歴を持つ
(どなたかが小説にしたら面白いかも)
。生没年は不明。
天平4年(732)か天平10年(738)の頃
(皇位継承者の誕生を期待して)
塩焼王に嫁がされた。しかし
(既に上で述べたように)
塩焼王
は天平14年(742)伊豆へ流された。
不破内親王は「聖武天皇治世に内親王剥奪」という記事があり、この事件で剥奪されたのか。このあたりは不明。
天平17年(745)赦免後、塩焼王との間に、志計志麻呂(天平勝宝元年(749))、川継(天平宝字3年(759))を産んでいる。
(既に上で述べたように)
塩焼王は
仲麻呂の乱
に巻き込まれ、天平宝字8年(764)戦場で敗死したが、このとき不破内親王は連座を免れている。
神護景雲3年(769)「孝謙太上天皇を呪詛し、息子の志計志麻呂を皇位に付けようとしている」と訴えられ、内親王剥奪の上、
京外追放
となった。
49光仁になってから冤罪であることが認められて、宝亀3年(772)内親王に復帰した。
さらに
3回目
、50桓武の天応2年(782)
(閏1月)
「息子の川継が謀反を計画している」と訴えられ、
淡路へ流された
。
50桓武は許してくれず、延暦14年(795)和泉に移され、以降の消息は不明。
政変に巻き込まれ続ける一生だった
ようです。
井上内親王
(草壁系/聖武天皇の第一皇女)
結果的に「皇統の変曲点に立つ」女性になった。霊亀3年(717)〜宝亀6年(775)。
母は不破内親王と同じ「県犬養広刀自」。養老5年(721)5歳で斎王に卜定、神亀4年(727)〜天平16年(744)(28歳まで)斎王。これが「皇位継承に巻き込まれなかった要因」。
天平18年(746)頃、
45聖武の命で
「白壁王」(後の49光仁)に嫁いだ(30歳前後)。
白壁王の父は38天智の第七皇子「施基皇子」(母は越道君伊羅都売)で、藤原氏との血縁は無い。「38天智の孫」というだけで選んだに相違ない。この時点では「皇位継承ルート」からは外れている。
記録によれば「白壁王は酒を飲んで所業を晦ます」ことが多かったようですが、48称徳の天平神護2年(766)には大納言まで進んだ。48称徳には信頼されたか。
神護景雲4年(770)8月
道鏡を天皇にできないまま48称徳が崩御
(53歳)。
次の天皇について、
48称徳の希望は道鏡
であっただろうが、
重臣たちはそれを認めず
(多分「遺詔」を捏造して)
、井上内親王の夫
白壁王を選んだ
。
(道鏡を避けるには)
「白壁王」以外に、天皇になれる人物は「周りに」いなかった
(というのが実情)
。
取り急ぎ同月に立太子、そして10月に
49光仁
即位(62歳)。井上内親王は11月に
皇后
(54歳)になった。
道鏡は同月「下野国」へ送られた。
さらに宝亀2年(771)1月に「息子の他戸王」が49光仁の皇太子になった。
しかし「最後は皇位継承に巻き込まれ」宝亀3年(772)「夫の49光仁を呪詛した」かどで
井上皇后は廃后された
(政変)
。
49光仁から見れば「
即位してしまえば、井上は不要
」ということだろうか。49光仁の皇太夫人・高野新笠との間には「山部親王(後の50桓武)、早良親王」がいた。
当然、他戸皇太子も廃太子された。井上廃后の理由は不明、「他戸廃太子が目的だった」可能性が高い。
井上前皇后・他戸王は、幽閉され、宝亀6年(775)共に同日没した(殺されたのだろう)。
49光仁を天皇にするために利用された人生だった
ように見えます。
これで見事なまでに「天武系の男は
(多分女性も)
誰もいなくなった
(多くは殺害・流刑された)
」。
そして宝亀4年(773)
山部親王が皇太子に
(37歳)なった。「井上皇后廃后で一番得をしたのは山部親王(後の50桓武)」、この辺に「
政変の首謀者
の影」がちらほら見える。
「井上内親王と他戸王」の怨霊を鎮めるために2人は
50桓武の開いた平安京
北縁の
御霊神社
に祀られた。
@〜Iは天武の皇子番号
丸括弧内は「生年−没年」
角括弧内は「天皇在位期間」
赤枠は「女性天皇」
(*1)(*2)は夫婦関係
(
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)
天智系と天武系の交替
壬申の乱
に勝利して「皇統は38天智→40天武に移った」かのように見えます。
41持統は「38天智の娘」ではあるが、
心は40天武べったり
。陵墓も40天武との合葬である。
草壁皇子(岡宮天皇)の
父は40天武、母は41持統
。
42文武(草壁系)の父は草壁皇子、母は阿倍内親王(後の43元明)。15歳で即位。
43元明の父は38天智、母は「蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘」であるが、
草壁皇子の妻
であり、45聖武までの中継ぎ(後の45聖武7歳の時に即位)。
44元正(草壁系)の父は草壁皇子、母は阿倍内親王(後の43元明)、45聖武までの中継ぎ(後の45聖武15歳の時に即位)。
45聖武(草壁系)の父は42文武(草壁系)、母は「藤原宮子」。ここから「藤原氏の血」が入る。24歳で即位。
46孝謙(草壁系)は後に48称徳に重祚した。
47淳仁(40天武/舎人親王系、大炊王)も
上に記述した
とおり廃位/配流/殺害された。
48称徳
で天武系は跡が途絶えた
(
家系図
参照)。
48称徳の後は「道鏡でなく」、「
40天武/草壁系の
井上内親王
の夫・49光仁
」が即位した。
49光仁の父は「施基皇子」(結果、
38天智の孫
)、母は「紀氏の娘」。40天武・藤原氏との関りはない。
かつ50桓武の母は「井上内親王」ではないので、
49光仁で
(厳密には宝亀3年(772)の井上廃后で)
「40天武系から切れた」「
38天智系に戻った
」ように見える。
50桓武以降、40天武系に戻ることはない。
(
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)