(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
渤海国
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平安時代(延暦14年(795)〜延喜19年(919)の間)に「22回」も
渤海使
が平安京にやってきた。
そもそも「渤海国」とはどんな国だったか調べてみた。
渤海国
渤海国の国情
日本との関係
渤海国
唐の「則天武后」が突厥と協力して「シベリア南部にいた契丹」を滅ぼした後、
698年
「大祚栄」が空白地帯となった「シベリア南部」を平定して「振国王」
(「震国王」とする文書もある)
を自称した
(後に「第1代高王」)
。これが「渤海の建国」である。
「大祚栄」は「668年滅亡した
高句麗
の遺民」である
(とされている)
。民族的には「ツングース系靺鞨族」とも。
唐の「玄宗」との交渉により、和銅6年(713)年「渤海郡王」に冊封され、「国名は渤海」となった。拠点は「営州」
(現在の遼寧省朝陽市付近)
。
第3代文王の頃(天平14年(742)頃か)、北へ勢力を伸ばし、首府を「中京顕徳府」
(現在の吉林省和竜市の東)
に遷した。さらに天平勝宝8年(756)頃、首府を「上京竜泉府」
(現在の黒竜江省寧安県)
に遷した。
上京竜泉府は
(下の図のように)
長安・平城京と同じように「巨大な(
条坊制
)の都城」として建設されている。
天平宝字6年(762)唐から「渤海国王」に格上げで冊封され、文王の末期(延暦9年(790)頃か)「海に近い東京竜源府」
(現在の吉林省琿春市)
に遷都した。
(直系が9代で断絶して、継体天皇のように傍系から選ばれた)
第10代宣王(弘仁11年(820)頃か)のとき最盛期を迎え
海東の盛国
と称された。
延喜6年(906)第11代末王が即位したころ、渤海周辺がきな臭くなってきた。
延喜16年(916)北にある契丹で
耶律阿保機
が「契丹国」を再興する。
延喜18年(918)南にある朝鮮北部で
王建
が新たに「高麗国」を興す
(高麗は後に新羅を滅ぼし朝鮮半島を統一する)
。高麗に接する民が高麗に投降する事態も起こり始めた。
延長4年(926)
耶律阿保機の契丹に攻められて
滅亡
した。
左図は「世界史の窓」から借用
(南部・西部は大日本帝国が不当占拠した「満州」とかぶる)
上図は「世界史地図」(吉川弘文館)から
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渤海国の国情
地勢
海は「日本海」に面する。現在の「ウラジオストク」は東京竜源府に近い港。
現在の「白頭山」(ペクトサン、北朝鮮)は中京顕徳府の南にある高い山(2,744m)。
豆満江、鴨緑江、松花江、牡丹江などが流れる。
自然・民族
(8〜10世紀は北半球温暖期にあたり、この辺も)
「亜寒帯冬季少雨気候」、落葉広葉樹や常緑針葉樹の林野だったらしい。
南部は、高句麗人と南部靺鞨諸族(粟末、白山など)で、主に「農耕」に従事。
北部は、北部靺鞨諸族で、主に「狩猟・遊牧」をやっていた。
文化
中国文化を受容する風土があり、公式文字は「漢字」で支配層は「漢語」を話した
(一般層は「渤海語」なる言葉を使っていた節がある)
。
支配層は、儒教・仏教も受け入れていた。
(上京竜泉府があった)
黒竜江省寧安県には、渤海時代の寺の遺跡(石灯籠)が残っている。
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日本との関係
(1)中国文化を受容する風土が共通する、(2)隣国「新羅」を軍事的に牽制する、観点から「
(中国文化を受容していて、新羅を挟む位置にある)
日本との交流」に関心を持っていたようです。
公式には
神亀元年(724)
初めて「渤海使」が来日した(第1代高王の頃か、平城京へ)。
平安時代になって初めて来日したのは
延暦14年(795)
第13回渤海使のとき(平安京に入ったのは延暦15年(796))。
日本への貢物は、
黒貂
・虎などの皮革製品
(狩猟業の産物)
、人参などの農産品。
日本は
鴻臚館
で接待し、絹などの繊維製品、水銀・黄金などの鉱産物を「返礼品」にもたした。
帰路には、時折
(日本からの)
遣渤海使
を付けて帰したこともあった(奈良時代から通算、13回/渤海使=34回)。
来日航路は
(上の図のような)
「日本海横断直行航路」だけでなく、「北回り航路」「朝鮮半島東岸沿航路」などをとることもあった。
結果、日本到着は「敦賀、加賀、出雲、隠岐」のほか「出羽」「長門」になることもあった。
あまり頻繁に渤海使が来日するのに困惑した日本は
(返礼品の負担の割に「得るものが少ない」)
天長元年(824)
藤原緒嗣
が
一紀一貢
を上表して「12年に1回来日する」よう申し込んだ。
これは「渤海に守られず」その後も頻繁に来日した。
しかし渤海の衰弱に伴い
延喜19年(919)
の来日が最後となった。
(注)史料(私のHPごと)に来日「年」が微妙に異なるのは、日本到着は年末が多く、平安京での活動は翌年になっている、ことによる。
例を示すと、平安時代最初の渤海使は「延暦14年(795)12月22日」日本到着なので、
本ページ
では「延暦14年(795)が最初の渤海使」と記したが、
平安京に初めて入った
のは「延暦15年(796)」と記した。最後の延喜19年(919)も同様で「最後に平安京に入ったのは延喜20年(920)」。本ページは「来日年」に統一した。
東鴻臚館址
東鴻臚館は承和6年(839)に廃止したので、それ以降の渤海使は「西鴻臚館」に宿泊したか
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