(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
山城国風土記
(INDEX:索引へ)
「風土記」は奈良時代に書かれたものなので、“平安時代に改作されていない”
(奈良時代の)
「京都のこと」がなにかわかるか、調べてみた。
風土記のこと
和銅6年(713)元明天皇が
諸国
に「各国の状況を書き知らせ」と命じた。
その内容は(1)「郡郷」の構成
(好ましい名前を付ける)
、(2)
(特記すべき)
鉱産物・動植物、(3)土地の良否、(4)山川原野の名称の由来、(5)古老の伝える古伝承。
早い国は和銅6年(713)、遅い国は天平5年(733)に提出している
(すべての国が提出したと思われます)
。
しかしこれらは
散佚
完全な形で残るのは
(写本ですが)
「出雲」のみ。
一部欠損した状態で残るのは
(写本ですが)
「播磨」、「肥前」、「常陸」、「豊後」。
多くの国の風土記は
一部のみ
逸文
として残っている。「
山城
」「丹後」はこの分類に位置する。
全く残っていない風土記もある。「丹波」などはこれに相当する。
山城国風土記
「可茂の社」
(上賀茂神社、下鴨神社のこと)
に関する
逸文のみ
が残っている
(「続日本紀」巻9)
。
(奈良時代の)
「郡郷」の構成
などは、風土記から知ることができない。
山城国風土記における「
可茂の社
」の記述
(現代文で抄訳、
山城国風土記では「上賀茂神社、下鴨神社」のことが“ぼんやり”わかるだけ
)
@「可茂」と名付けた由来
は、
日向高千穂
に降臨した
建角身命
の神話による。
建角身命は「神倭石余比古」
(神武天皇)
東征の道案内として
(大和)
葛城
に宿り、やがて次々移動して、「山代の国の
岡田の賀茂
」に至り、山代河
(現・木津川)
を遡行し、「
葛野河
(現・桂川)
と
賀茂河
(現・
鴨川
)
」が合流する所
(現・
山崎
か)
まで来て、さらに
(「賀茂河を」)
遡行して
久我の国の北の山麓
に鎮座した。それ故
この地を賀茂と呼ぶ
。
「岡田の賀茂」とあるが
まず
現在
(木津川縁にある)
「
岡田鴨神社
」のある
相良郡賀茂郷
へやって来た。
次に
「山崎」を過ぎて、遡行した「久我の国」の「北の山麓」というのがわからない。
「久我国」は、古くから「乙訓の久我
(「
乙訓郡羽束郷久我
」を中心とする)
」一帯を指すのか。「山背久我国造
(くにのみやつこ)
」が支配していた、という記録もある。
確かに今もこの辺り
(旧・乙訓郡羽束郷)
に
久我神社
がある。
しかし「山麓」は現・上賀茂神社の背後の「神山」山麓と解釈したい。
(傍証として)
近くに
(上賀茂神社の(南にある)境外摂社)
久我神社
が残る、
(奈良時代は愛宕郡でなく)
「久我郡」だったか。
北の山麓は「鎮座して後」
愛宕郡賀茂郷
と呼ばれるようになった
(のだろう)
。
「鎮座した」のは「建角身命」。
現在の
上賀茂神社
の由緒には「
(孫の)
賀茂別雷大命
(可茂別雷命)
が背後の
神山
に降臨した」とあって、若干矛盾する。
合流点から
(現・山崎か)
賀茂川
を見廻ると「狭いけれど、石川の清川」がある。よって
石川の瀬見
(瀬が見えるくらい浅い)
の小川
という。
「
瀬見の小川
」は現在「
下鴨神社
」にあるが、「山崎から見廻る」距離ではない
(もっと遠い)
。
合流点近くの
(奈良時代の)
「賀茂河」は「狭小」で、合流点近くの賀茂河を「石川の
(にある)
瀬見の小川」と呼んだのだろう
(可茂社の境内にあった訳ではない)
。
合流点近くの「乙訓郡」には
石川郷
があるから、「瀬見の小川」は石川郷あたりを指すのかもしれない。
しかし
(後年になって)
鴨長明
は
下鴨神社で
「石川や せみの小川の 清ければ 月も流れを 尋ねてぞすむ」と詠っている
(この辺りも難しい)
。
(この後)
賀茂の建角身命は・・・
(
A以下、その係累の話が続く
。その関係を下の図に示す)
。
(その中で)
「伊可古夜比女」は「丹波の国の神野の神」であり、「火雷命」は「
乙訓の郡
の社に鎮座する神」である
(との記述がある)
。
「丹波の国の神野」は「兵庫県丹波市氷上町」か、今も「神野神社」が残る。
「乙訓の郡の社」は現在の「向日神社」か、かつては「乙訓坐大雷社」であったらしい。
建角身命の係累の図
「建角身命」「伊可古夜比女」
(その娘)
「玉依日売」の
三柱は
、
蓼倉
の里にある
三井の社
に鎮座している
(
Bで結んでいる
)
。
「三井の社」は今も「下鴨神社摂社・三井社」として残っている
(下の図、下鴨神社資料から)
。
山城国風土記は、「可茂の社」と「三井の社」の関係を明確に語っていない。
「玉依日子」については、記述がない。現在の「賀茂県主らの遠祖」と伝える人もいる。
下鴨神社
西殿の祭神は
(最初に鎮座した)
「
賀茂建角身命
」
(建角身命)
、東殿の祭神は「
玉依姫命
」
(玉依日売)
、である。
現在の
(建角身命が最初に鎮座したと思われる“賀茂”の地の)
上賀茂神社
の祭神は
(孫の)
「
賀茂別雷大命
」
(可茂別雷命)
である。
三井社の位置
「三井社」
下鴨神社「河合神社」のすぐ南
「瀬見の小川」の西岸
「三柱」を祀った「三井社」は「下鴨神社」入ってすぐのところにある
山城国風土記における「可茂の社」の記述についての「現代の評価」
「カモ」氏の移動伝承、
「葛城鴨」から「山城鴨」への転換
を要領よくまとめている、との評がある一方
「山城鴨」氏が「
葛城鴨
」氏の系譜に属するかは疑問で、鴨川流域に勢力をはった「カモ」氏が「自らの始祖伝説」をでっち上げたのではないかとの評もある。