(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
(平安時代の)貨幣
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平安時代に「貨幣」はどのくらい使われていたのか、調べてみた。
- 貨幣は発行された
- しかも9回も改鋳された(銅の含有率は日本銀行資料から)。
発行年 | 貨幣名称 | 発行時の天皇 | 銅の含有率(%) | 葛野鋳銭司(貞観12年(870)設立)の址 |
延暦15年(796) | 隆平永宝 | 50桓武 | 69.50 | |
弘仁9年(818) | 富寿神宝 | 52嵯峨 | 76.67 |
承和2年(835) | 承和昌宝 | 54仁明 | 70.50 |
嘉祥元年(848) | 長年大宝 | 54仁明 | 71.50 |
貞観元年(859) | 饒益神宝 | 56清和 | 63.00 |
貞観12年(870) | 貞観永宝 | 56清和 | 52.84 |
寛平2年(890) | 寛平大宝 | 59宇多 | 80.00 |
延喜7年(907) | 延喜通宝 | 60醍醐 | 69.48 |
天徳2年(958) | 乾元大宝 | 62村上 | 51.25 | 碑は桂川畔(現「渡月橋」の近く)。この辺にあったのか |
- 発行された貨幣はすべて銅銭。単位は「1文」。平均発行間隔は約20年。
- 「1000文を1貫文」、「1貫文を略して1貫」との単位もできた。
- 短い間隔で改鋳されている。
- 鋳造を担当したのは「鋳銭司」(長官は「五位」相当)、令外官である。
- 鋳銭司が置かれたのは、岡田・葛野(京都)、田原(奈良)、河内(大阪)、周防・長門(山口)などらしい。
- 小野当岑(従五位下)が元慶2年(878)、長官を勤めたことがある。
- 「乾元大宝」を最後に、平安時代は以降「新たな貨幣」は発行されなかった。
- 奈良時代に発行された3種を合わせて皇朝十二銭と呼ばれる。
- 次に発行されるのは、寛永13年(1636)の「寛永通宝」、約700年後(慶長11年(1606)「慶長通宝」が発行されたとの説もある)。
- その間は、渡来銭。平清盛が「宋銭」を流通させようとしたことはよく知られている。
- どのくらい流通したのか
- 朝廷の思惑
- 一般庶民が「貨幣経済の発展」を望んでいたかと言うとそんなことはなく、中央集権国家としての権威を示すのが「主目的」だったように思える。
- 流通促進策として
- 平安京造営などの公的作業の工賃は「銭貨」で支払う。官人の給与も「銭貨」で支払う。
- 租庸調の「庸調の代替」として「銭貨」で支払うことを認める。
- 西市の東北角に「出挙銭所(銭貨の貸し借りを行う、いわば金融機関)」を設けて「銭貨」の流通を促進した。
- 一般庶民の行動
- 「東西市などでの売買は銭を以て多く行われた」、「田地の売買も貨幣で取引された」など、さらに売買記録として「銭十六貫六〇〇文で田畑を買い取った」との貨幣流通の記事は散見される。
- 「隆平永宝」が流通の頃「上田1町の値段は4000文以下にせよ」との詔が出されている。
- 「延喜通宝」が流通の頃「米1升の価格は17〜18文」との記事がある。
- 一方「市場での取引は、貨幣のみを媒介として行われず、絹や米で直に払い、さらに物々交換も盛んに行われていた」との記事もある。
- 結局は寛和2年(986)頃には「一切世俗銭を用いず」という状態になった(「本朝世紀」)。
- 平安中期以降は「貨幣経済は衰退」。物々交換、もしくは「代価として米や絹布」(これらは「准米」「准布」と呼ばれる)が用いられる貨幣の無い時代に戻った。
- 勿論、官人の給与も「米」で支払われるように戻った。
- なぜ貨幣は使われなかったのか
- いろいろ意見はあるが、大胆に言えば、次のように集約できるのではないか。
- 貨幣の発行量が少ない。
- 「富寿神宝」も「承和昌宝」も約10万貫。
- 米1升=10文としても、米1石=1貫だから、発行量は「10万石」相当。「平安時代の全国米生産高=1,000万石」と推計されるから、発行量は米の1%。
- 米の全国流通すら貨幣でカバーできないので、全国の経済を貨幣に置き換えることなどとてもできない。朝廷の貨幣政策が及び腰だったと言わざるを得ない。
- 貨幣の品質が悪い。
- 公称の「銅含有率」は上の表のとおりだが、実際には(製造技術が確立されておらず)ムラがあって、銅含有率のもっと少ない銅銭も発行されていた(大きさもマチマチであったらしい)。
- 品質が悪く、偽造しやすいために私鋳銭が横行する。
- これを防ぐために改鋳する。こうなるといたちごっこで、旧銅銭の回収能力の問題もあって(元々銅の生産能力も低いので)「銅が不足」する。新銅銭の「銅含有率」を低くするか「発行量」を抑えるか、せざるを得なくなる。
- 終盤の「延喜通宝」「乾元大宝」に至っては「実際の銅含有率が10%未満の銅銭」も出土されており、鉛銭との悪評も立った。
- 品質が悪いために破損しやすく、実際の流通量は(新規発行から時間が経つにつれ)発行量よりも少なくなっていく。
- 一般庶民の貨幣経済に関する理解が醸成される時代にはなっていなかった。
- 「商品や人の移動」が局所的で「貨幣が便利だ」と理解されていなかった。
- 局所的なので(物の持ち運びもさほど手数にならず)「物々交換や米・絹布との交換」で十分買い物ができた。
- 地方の有力者は、奈良時代に制定された「蓄銭叙位法」(銭貨で位階が買える)を信じて、貨幣の正しい使い道を知らずに(銅銭を買い物に使わないで)蓄銭し続けた。
- 延暦17年(798)には「蓄銭の禁止」が命じられたのですが、蓄銭はなくならず、貞観9年(867)にも再度勅命が出ている。蓄銭も貨幣の流通量を減らす要因の1つになった。
- 平安時代初期には貨幣は発行されたが、利用は低調で、結局、平安時代中期以降は「貨幣の空白期」になった。