(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
西京極大路
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平安京の西端の大路「西京極大路」は現在の「どの通り」に相当するか
わからない
(
こちらを参照
)
。
それでも最近の発掘調査でなんとか少し分かるようになってきた。
最近の発掘でわかったこと(平成8年(1996))
西京極大路の跡が見つかった
(下図の「赤太線(@とAの間)」)。
大治5年(1130)
法金剛院
建立の際、「近衛大路相当位置から春日小路
(中御門大路の一本南)
相当位置」に
整備された大路
。
この部分からは
(上記大路の上に)
「室町時代後期や明治時代に至るまでの
路面」が検出
された。
「この辺り」は
(少なくとも大治5年(1130)以降は)
「大路として使われていた」と言える。
下図の「緑破線」は「大路が整備されていたかどうか」は不明。
逆に「二条大路以南」では
道路の遺構は全く検出されていない
。
「緑色の破線」=西京極大路(一条〜二条)
ただし発掘された部分は「赤太線」
上記発掘以前からわかっていること
平安時代には、この大路の東側「二条大路〜三条大路」には
厨町
(くりやまち、下級役人の住居)
があった。
平安時代後期には、この大路の東側「六角小路〜六条大路」には
小泉荘
(摂関家の荘園)
があった。
これらのことから「大路は無くとも
平安京の西端を示す構造物
(例:柵など)
はあったと考えられる。
発掘された西京極大路の@地点
同左A地点
(写真の突き当たり)
平安京復元模型
(写真)
右壁は
今宮神社
。塀沿いに真っすぐ北に西京極大路が伸びていた
(はず)
突き当たりの先の西京極大路には家が建っている
「京都市歴史資料館」が1/1000縮尺で作った模型
(それをカメラで撮ったもの、左端の「3つの赤丸」の右の南北の道が「西京極大路」)
以上から結論付けることができる事柄
平安京造営当初は西京極大路は造られなかった
。
平安京は当初から、上の「平安京模型」のように大路・小路がきちんと整備されていたわけではなかった。
恐らく「ここには道路ができます」という
杭
か
柵
が置かれていたに過ぎないのでしょう。
平安時代後期までにやっと「一条〜六条」は
(
大路ではない
)
道らしきものができてきた
(のでしょう、上の写真を参照)
。
さらに付け加えると、同様に
木辻大路と西京極大路の間にあったと記録されている
菖蒲小路、山小路も造られなかった
のではないか
(参考:
西大路より西の通り
)
。