(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
京都市
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「京都」といった場合、京都の人は明らかに京都市のことを指しています。
人によっては「京都」はもっと狭い範囲だと思っている人もいる。
私説 京都の固有名詞化
- 【梅棹事典からの一部引用】
- 「京都」といった場合、京都府のことなのか京都市のことなのか、はっきりしないことがある。・・・京都のひとは、京都市民という意識はつよいが府民という意識はうすい。京都人は丹波や丹後も京都とよばれることになじめない。
京都府(図全体)と京都市(緑で囲まれた部分)は明らかに違う。
さらに京都市の中も、中心部(橙色の部分)と外郭部(緑の部分)も違いがありそう。
- 【私説】
- 「京都」といった場合、京都の人は明らかに京都市のことを指しています。
- NHKの大河ドラマ「新選組」でも撮影協力のところで「京都府、京都市」と列記している。ということはNHKも京都市は京都府の一部ではない、京都市と京都府は別だ、と認めているのだろう。
- さらには京都市の一部だけが「京都」だと思っている人も多い。
- 一番狭くは「鴨川・堀川、丸太町・五条に挟まれた地域」だけが「京都」だと思っている人もいる。
- 少なくとも江戸時代の中頃までは、岡崎(現・京都市左京区)あたりに住んでいる人は寺町あたりへ行くときに「ちょっと京都まで行ってきます」と言っていたと云う。
- 一般的にはもう少し広くとらえているようです。
- 旧市内地域(碁盤の目の地域)と、桂川以東、妙法の山・東山・衣笠の山の内側くらいまで。
- 山科、伏見は「京都」ではない(この地域の人、ごめんなさい)。
- 【留意】
- 話す相手によって「京都」の範囲を変えながら、話す方が無難そうです。注意しましょう。
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- 京都の固有名詞化(京都はいつから京都と呼ばれるようになったのか)
- 問題の背景
- 京都は平安京遷都から日本の首府であり続けていたが、単に「みやこ」とか「きょう」と呼ばれるだけで、「京都」とは呼ばれてこなかった。
- 古い史料から用語「京都」を探す
- 最も早い時期か「尾張国郡司百姓等解文」(永延2年(988))
- 尾張国守藤原元命の非法・横法を朝廷に訴えた文書(解文)。
- その中に「元命が京都に物資を運送する」とあり「みやこを京都」と表現している。
- 若干微妙ですが「扶桑略記」(嘉保元年(1094)頃に編纂された歴史書)
- 天慶3年(940)正月22日の条に「将門の軍、只今すでに京都に入る」とある。
- 天慶3年(940)に「京都と呼ばれていた」ことを証明するにはやや難がある。
- 「後二条師通記」(藤原師通の日記)
- 嘉保3年(1096)3月4日の条に「辰時、宇治殿に参る。・・・入日の後、還る。戌時、京都に着く」とある。
- 日記だから、嘉保3年(1096)に書かれたことは間違いない。
- 文書ではないが「鎌倉時代に入ると“京都守護”という役職ができた」
- 初代北条時政は文治元年(1185)11月着任している(7代、承久の乱まで)。
- 「山城」には守護は置かれなかった。「丹波」には守護が置かれた。
- 江戸時代に入ると“京都所司代”という役職ができた。
- 周辺には「淀藩」、「伏見藩(元和5年(1619)まで)」、「園部藩」などの藩が置かれた。「京都藩」はできなかった。
- そして明治時代になって、慶応4年(1868)「京都府」、明治22年(1889)「京都市」ができた。
- 現代の評価
- (「京都」に詳しい)朧谷寿教授は「11世紀の後半で、院政期には定着した」と言っている。
- 角川日本地名大事典には「京都は院政期以降」と書いている(院政は応徳3年(1086)に始まる)。
- 京都新聞は「12世紀になってから」としている(12世紀は康和3年(1101)に始まる)。
- 【私説】
- 平安時代後期になって「京都」は固有名詞化されたと考えてよいと思う。
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