(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
宇治と鳥羽と伏見
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「宇治と鳥羽と伏見」はいずれも
平安京の南・洛外
にある地域。最近「観光で脚光を浴びつつ」ある。
「鳥羽・伏見」とか「宇治・伏見」と
2地域ペア
で呼ばれることが多い。「3地域の関係はどうなっているのか」調べてみた。
昔の人の認識
伏見
鳥羽
宇治
最近の使い方
昔の人の認識
「
和名類聚抄
」
(
承平年間(931-)
)
に記載されている「郷」は
次の図
のように認識されていたようです。
「和名類聚抄」
(
承平年間(931-)
)
に記載されている「郷」
(1)伏見
「伏見郷」は見当たらない
局所的な地域だったようです
紀伊郡「石井(いわい)郷」に含まれると認識されていた
(2)鳥羽
紀伊郡の「鳥羽郷」と認識されていた
「鳥羽」「石井(伏見)」は
隣同士
の感じ
(3)宇治
宇治郡と久世郡それぞれに「宇治郷」があり
宇治川を挟んで「東岸と西岸」が宇治と認識されていた
宇治は「伏見」「鳥羽」とはかなり離れている
平安時代から
宇治の存在は目立つ
地域だったようです
「
都名所図会
」(
安永9年(1780)
刊行)では次のように記述されている。
伏見
『古は隴々(ろうろう)たる野径にして、所々に民村あり。秀吉公御在城より大名屋敷・諸職工人・賈人(あきんど)軒端をつらね、町小路に市をなし、都へ貨物を通じて交易をなしけり。故人和歌に詠ず』
訳者注:「民村」は伏見九郷のことで、即成院村、森村、舟戸(船津)村、石井村、保安寺村、山村、北尾村、北内村、久米村から成る。紀伊郡石井(いわい)郷に属す。
記載されている和歌はすべて「平安時代後期」のもの。1つ挙げると、
式子内親王
(正治3年(1201)没)『荒れにけり 伏見の里の 浅ぢ原 むなしき露の かゝる袖哉』(玉葉和歌集)。
式子内親王が伏見まで出掛けたとは思えないが「伏見は荒れている」と聞いていたのだろう。
その他、(江戸時代の)
伏見舩場
の図も掲載している。
鳥羽
『鳥羽の里は四ツ塚の南。上鳥羽・下鳥羽とて、南北一里ばかりあり。民家多し』
「四ツ塚」については別の個所に記載があり『
羅城門
の旧蹟のあったところ』とある。
記載されている和歌はすべて「鎌倉時代」のもの。1つ挙げると、
後鳥羽院
(延応元年(1239)没)『露しげき 鳥羽田の面の 秋風に 玉ゆらやどる 宵の稲妻』(風雅和歌集)。
後鳥羽が鳥羽へ出掛けたかは不明だが「鳥羽には田がある」ことは知っていたのだろう。
宇治
『(或いは
莵道
(うじ)
とも書けり)宇治の里は都から行程四里にして、宇治橋の東は宇治郡、西は久世郡なり。むかし応神天皇第五の親王、莵道稚郎子に帝位を譲り給ふをかたく辞してこゝに閑居し給ひ、宇治宮と号し(中略)。皇極天皇は大和国飛鳥宮より近江の比良宮に行幸なるとて、宇治の里に一夜泊らせ給ふ、尾花をかりて庵をつくらせ行宮となさしめ、これを宇治都といひ伝えける』
訳者注:「宇治都」の場所は、現在の「宇治市宇治下居」にあたる
(現在の宇治市役所近く)
。
併せて、額田王(630−690)の和歌も記載している。『秋の野に 尾花刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処の 仮盧しぞ思ふ』(万葉集)。
その他、宇治については
いろいろな記述
がある。(
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)
それでは「地域ごと」に整理してみよう。
伏見
今や「鳥羽を超えて」
伏見区
という大きな地域になっているが、伏見という名が知られるようになるのは「決して早くなかった」。
伏見稲荷大社
の創建は「和銅4年(711)」ではないかとの声も聞こえそうですが、この神社の正式名称は「稲荷神社」であって、
都名所図会
にも「稲荷大明神の社」としか書かれていない。「伏見の名」がいつから付いたのかは「当の伏見稲荷大社も明確にしていない」。
「伏見という名」が史料の上に最初に見られるのは「橘俊綱の
伏見山荘
」か。
橘俊綱(長元元年(1028))〜寛治8年(1094)、
頼通
の二男)は平安時代後期の人。
「伏見という名」が歴史上脚光を浴びるのは
天正20年(1592)
豊臣秀吉が「伏見御屋敷」の建設を始めた頃からである。
そしてその界隈に
伏見城
を築城し、
徳川家光が将軍宣下を受ける
まで政治の重要拠点になった
(元和9年(1623)廃城)
。
さらに文禄3年(1594)「
宇治川の付け替え工事
」
(伏見を経由して淀川へ流す)
が行われ、慶長18年(1613)頃
角倉了以
が「高瀬川を開削」し『京−伏見−大阪』が水運で繋がった。
結果、
物流の拠点
となり
船宿
なども多くできて、町として栄え「深草、鳥羽を追い抜いた」。
辺鄙な野径だった
伏見が栄えたのは偏に「水運を重視した」豊臣秀吉の伏見城築城に負う
。
都名所図会
記述のとおり。秀吉が出なければ「伏見は石井郷の田舎町のまま」だったかも。
産業としては、明暦3年(1657)頃から
伏水
を使った
清酒の醸造
も盛んになり、現在まで続いている。
(
後述
のとおり)
伏見も「鳥羽伏見の戦い」で
市街戦
が行われ、今でも
弾痕
を残している。偶然のなせる業だが
伏見はアンチ徳川の町
とも言える。(
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)
伏見区
現在は「伏見稲荷大社」が正式名称のようです
濠川(宇治川派流)に面する「醸造業者」
京都市の最南端部にあたる
伏見区
深草
藪之内町にある
今でも、この堀から「宇治川−淀川」へ出られる
鳥羽
平安京造営時
に「羅城門から一直線に南行するように造られた」
鳥羽作道
が「史料に現れる最初の鳥羽の名」か。
平安時代は「難波からの外国人使節の入京路」として使われ、鳥羽作道が淀川にぶつかるところに「鳥羽津」が造られた。
平安京造営と同時期に
城南宮
(曲水の宴が行われる)が造られ、
賀陽親王
(貞観13年(871)没)や
藤原時平
(延喜9年(909)没)がこの地に「別業」を造った。
鳥羽は
(
都名所図会
にあるように)
羅城門からすぐに行ける地だった。
「鳥羽という名」が歴史上脚光を浴びるのは
応徳3年(1086)
白河上皇が院御所として
鳥羽殿(鳥羽離宮)
の建設を始めた頃からである。
鳥羽離宮は鳥羽上皇の代にほぼ完成した。このことから鳥羽法皇は「鳥羽と追号」された。
鳥羽離宮の跡地
安楽寿院
の周りには、
白河天皇陵
、
鳥羽天皇陵
、
近衛天皇陵
が残る。
院政も終わり、南北朝の内乱で多くの殿舎が焼失し、その後荒廃した。
風光明媚で詠われた
鳥羽は「鳥羽と追号された法皇」の院政の御所として名を遺した
。
もう一度「鳥羽の名」が歴史に出てきたのは
慶応4年(1868)
鳥羽の小枝橋で始まった
鳥羽伏見の戦い
である。
「院政・明治維新」と
鳥羽は政治の変曲点に立ち会っている
。(
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)
今も残る「鳥羽作道」
鳥羽離宮跡に建つ「院政の地」碑
小枝橋に残る「鳥羽伏見の戦い」の碑
鳥羽地蔵
辺りから北
(
羅城門
)
方向を望む
応徳3年(1086)ここで院政を始めた
ここで戦端が開かれた
宇治
平安京以前から
宇治橋
があったことが知られている。
「続日本紀」には僧道昭(629-700)が架橋したとある
(道登の説もある)
。宇治橋は「近江と大和」を結ぶ重要交通路の宇治川渡河地点であった。
都名所図会
にあるように、額田王も宇治まで来ているし、莵道稚郎子の頃、
宇治神社二座
(世界遺産)
が創建されている。
「宇治の名」が歴史上脚光を浴びるのは
平安時代中期
藤原道長が宇治に「別業」を建てたことに始まる。この別業は子の
頼通
(宇治関白)によって
永承7年(1052)
平等院
になる。
その後、
藤原師実
(後宇治関白、京極殿、泉殿)、
忠実
(富家殿、小松殿)も宇治に別業を造り、
別業都市宇治
になった観がある。
道長がなぜ「宇治の別業」を愛したのか明確な理由はわかっていない。
道長が晩年
浄土教
に傾倒したことと関係しているのではないか。想像を膨らませれば、平安京は
(西山が邪魔して)
「西方が見難い」、阿弥陀さんの住まれる「西方を見たい」、ならば「宇治が
(月も良く見えるので)
良いのでは」と考えたのではないか。
平安時代中期には
紫式部
が「宇治を舞台」に源氏物語
宇治十帖
を書いている。
紫式部がなぜ「宇治を舞台」に宇治十帖を書いたのか明確な理由はわかっていない。
道長が足しげく「宇治に通っていた」、その「宇治の光景を美しい」と思ったからか、宇治を
(その音から)
「憂し」
(つらく、悲しい)
土地と感じたか。
古から
宇治は平安京とは独立した町
で
交通の要衝、観月の地、彼岸に近い地
であった。
交通の要衝であったことから、よく
宇治川を挟む合戦
に巻き込まれた。
治承4年(1180)、
源頼政
(以仁王)が平家軍(平重衡、平維盛)に敗れた。
元暦元年(1184)、源義経(佐々木高綱)が
木曽義仲
(志田義広)を破った。
承久3年(1221)、北条泰時(佐々木信綱)が後鳥羽軍(藤原秀康)を破った(
承久の乱
)。
産業としては「
宇治茶
」が有名。鎌倉時代から生産が始まり、15世紀には「第一の産地」と評されるようになった。
千利休
も「宇治の抹茶を第一」とした。現代でも評価は高い。(
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)
芭蕉
も「山吹や 宇治の焙炉の 匂う時」と句を詠んでいる。
「宇治橋断碑」(放生院、重文)
平等院「鳳凰堂」
宇治橋の傍らに立つ「紫式部」の像
宇治橋の由来を刻した石碑の断片。
「放生院」も680年道昭が創建
鳳凰堂の中の阿弥陀如来坐像は
西側に座して
東を向いている
平成15年(2003)になって建てられた
最近の使い方
「鳥羽・伏見」
これは
鳥羽伏見の戦い
に
引っ張られて
組み合わせた観が強い。
そもそも
鳥羽街道と伏見街道
は
平行して離れている
。
一緒に観光するには無理がある。
鳥羽は「平安時代末期」、伏見は「安土桃山時代」で、時代的にも「共通観」はない。強いて言えば「幕末だけが共通」。
観光的にも、鳥羽は「近鉄」、伏見は「京阪」で、丹波橋での乗換を強いられる。。
「元帥公爵大山巌」から引用(
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)
「宇治・伏見」
これは「共に京阪沿線」にあり、京阪も「宇治・伏見 1Day パス」を販売して、観光に努めている
(現在は役割を終えて「京阪電車 京都1日観光チケット」になった)
。
これを「使った人は多い」。でも「宇治観光には時間を掛けたい」。
「宇治市観光協会」は『平等院、宇治茶、
興聖寺
、宇治十帖、宇治神社二座、
源氏物語ミュージアム
』と廻ることをお薦めしている。(
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)